想起・想像において心像は伴うか?  

今僕は、自分の部屋にいる。
目を閉じて、先週末のこの部屋の風景を思い出している。
久しぶりに会った友人の笑顔がそこには見え、視線を下ろすと畳の上には、コーヒーカップとアイス、沖縄土産のお菓子が乱雑に置かれている。視覚風景だけでなく、「簿記の2級受かりましたよ」「奨学金がもらえるようになったからバイトを止めます」といった会話の内容も聞こえてくる。
だがその時僕は、当時の状況を映像的に、いわゆる想起心像として心に浮かべているのだろうか?*1

確かに今でも、そのときの部屋の状況を細かく言い当てることができる。
「あなたの背後の窓のカーテンは閉められていますか?」といった細部を問う質問に、目を閉じてじっと考え込むことで、「ええ、閉じられています」と、正確に答えることができる。だがその思い出しは、今現在の視野に映る情景を見ながら言い当てるのと同様に、想起心像をいわば「心の眼」で凝視したゆえなのだろうか。
今現在の視覚風景の中での部屋のカーテンの状態を確認するのと、想起された部屋のカーテンの状態を確認する仕方は同じなのだろうか。はたして想起によって像は現れるのか。

試しに、目を開けて現在の部屋の情景を見ながら先週末の部屋の情景を思い浮かべてみる。だが、問われた細部を言い当てることはできても、今見えている視覚風景のどこを探しても思い出された部屋の像は見当たらない。

想起とは、確かに映像として思い出しているようにも思えるし、その一方で、その映像を凝視しようと集中すれば、瞼の裏には暗闇とまだらな光模様が行き交っているだけで映像などどこにも無い様にも思える。ただ一ついえるのは、もしそれが像だとしても視覚風景とはまったく異なった在り方をしているということである。同様のことは、想像や予期についてもいえる*2

つまりは、視覚風景以外に我々の心に像を結ぶ現象はありえるのだろうか。
想起されるものは過去の体験であり、そしてこの体験は当時の視覚映像であるゆえに、それを再び喚起させたときにも、当時と同じ映像が浮かぶと考えてしまうのではないだろうか*3

その上で次のように問う。

想起・想像において像を結ぶと考えるこの誤謬が、視覚風景でさえも視覚心像として外部世界を心の中に写像した「写しの世界」と考える二元論的思考を許容する一つの土壌ではないだろうか?

想起・想像において現れる「何か」は他者から見えないばかりか、本人でさえどこにあるのか見当もつかない。だが、今目の前の視野風景とは異質の場所、存在の仕方をしていることは明白である。それゆえ、私固有の領域を想定し、それらの心像はそこに収まっている私泌的な風景だと考える*4。いわば、一般的な三角形が現実世界には見当たらないゆえに、イデア界という形而上学的世界を想定したように、現実世界に見当たらない想起心像、想像心像、さらにはそこから関連づけられた知覚心像でさえも、「心の中」という形而上学的世界に押し込んだのではないだろうか。

語が意味するものは、それによって思い浮かばれた心像ではない。
電話の声を聞いて、「ああ、お母さんか」と理解できるのは、母親の顔の映像が浮かんだからでもない*5。少なくとも必要条件ではない。語も声も、心像を通さずにそれ自体で直接対象を理解する。それと同様に、「想起する」「想像する」とは、過去や空想上の状況を映像として思い浮かべることでなく、「意味」として理解する行為ではないだろうか*6

記憶心像を結ぶとは、過ぎ去った過去の体験を脳内データとして保存し、必要な時にそのデータを映像に変換することを意味する。しかし、なぜ脳内データという物理現象が映像という感覚現象を呼び起こすのか、両者の断絶を埋める術はない。そのような不可思議な断絶を考えず、記憶とはその時の情景を意味として記憶することであり、想起とはその意味を取り出して、再解読することである、と考える方が合理的であると私には思える。
つまり我々は、知覚風景という一枚の映像を意味に変換して保存し、その意味のまま呼び出し、解読しているのであり、それが「想起する」と呼ばれる行為ではないだろうか?*7

*1:他の人にももう一度確認してもらいたいのだが、想起するとき、本当に映像を、少なくとも視覚と同型の像が心に浮かぶのだろうか?

*2:夢はどうだろうか。「夢はおきてから見るものである」といわれるが、睡眠中の夢は映像でありえるのか。

*3:音を思い出すときも同様である。想起において現れるのは「音」ではない。昨日の友人との会話を思い出すときに、たしかに彼の声の調子や声色まで再現できるだろうが、それらは聴覚を必要としない。耳をふさいでもその「声」にはなんら影響を与えない。彼の友人との会話を思い出すとは、彼の声を聴覚的に再現することではない。

*4:私泌的なものは主観的、その人だけのもので、誰にでも共有されるものは客観的なものとされるが、その分類は「非実在-実在」を示すのか。

*5:id:Paul:20011202

*6:では「意味として理解する」とはどういう意味だろうか? 言語としてということか? もしそうであるならば、言語的思考能力のない幼児や言語脳を破壊された人は記憶がないことになる。しかし、言葉の話せない幼児でさえ、昨日しまわれたおもちゃの場所を思い出すことができる。それとも、言語を使用することはできなくとも、言語的思考回路は備わっているということだろうか。言語的思考がなくとも自由自在の想起は可能か。動物、昆虫。

*7:想起、想像した時に心像を結ぶかどうかは、視覚風景を見ているときと、目をつむってその情景を思い浮かべている時の脳の状態を比較する実験があればわかるのだが見つからない。それに近い実験は以下の通り。想像活動をしている時の脳の活動状態を調べた実験がある。「テレビ」と「スイカ」という二つの語からそれぞれをイメージさせ、その次に「スイカテレビ」という現実には存在しないものを想像させる。その時、主に活動する脳の部位は言語に関する左の前頭前野である。これはテレビとスイカの言葉の概念を結び合わせているため、言語的な脳が活動しているとも解釈できる。だが、テレビとスイカの絵を見せて、その絵を融合させても、同様に言語脳が活動する。空想する時は、言語と関係する左前頭前野が活性化する。ここから、創造性は、言語の働きによる部分が大きいと結論できる。(『目で見る脳と心』p74)。また、記憶を「取り込み(覚えようとする段階)」「保持」「取り出し(思い出そうとする段階)」の3工程に分けて脳の活動を調べれば、「取り込み」と「取り出し」では同じような状態となる。その時、空間的な位置情報を処理する中枢のある頭頂葉が活性化する。ただし、この実験では「取り込み」も「取り出し」もどちらも視覚野を使用する実験なので、それで「取り出し」時に視覚的な心像が結ばれるとは結論付けられないが。