日常と哲学  

先週は忙しかった。

一週間、哲学のことは何も考えられなかった*1
頭の切り替えは得意だと思っていたが、さすがにそんな余裕もなかった。
なんでもそうだが、物事を深く考えようと思ったら、思考を途切らせてはいけない。
一週間も空くとほとんど致命的。

特に僕にとっての哲学は、少し油断すると途端にどこかに逃げていってしまう気まま者。
そうなると、「彼」を呼び戻すのは大変だ。
日常の生活にぴったりと馴染んでいる僕と、世界から身を引き離してありのままの世界を見直そうとする僕とは大きく乖離している。
前者から後者の僕へと移行するのは、自然に逆らって思考しなければならない。
なぜだろうか?

日常の僕が意識を向けているのは、具体的な人や物ではなく、それらの関係性で構成された社会全体の関係性の総体であり、哲学はその関係性から逃れることから始まるからだと思う。

他人と接する時、友人として、先輩として、息子として、といった相手との関係によって僕は振る舞いを変えなければならない。そのためにも常に、相手の位置を把握し、そこから僕と相手との関係を読み取らなければならない。

それは人に限らない。物でもそう。
客観的に見れば、僕の周りには無数の事物が存在するが、僕の意識にのぼる物は必ず、そのときの僕と関係を結ばれた物だけである。
僕が車の運転をしている時、僕に見えているものは、スピードメーターであり、信号であり、横断歩道で渡るタイミングを計っている子供である。

僕が社会と深く関われば関わるほど、社会での活動に没頭すればするほど、張り巡らされた関係性の蜘蛛の巣の中に自分をいかに適切に配置させるか意識を集中しなければならない。

一度、その関係性を解読する思考方法に慣れてしまえば、そこから身を引き剥がして、その関係性を消去した後に残る世界、関係性を成り立たせている土台そのものを見つめるのは難しい。
哲学的に考えるとは、僕にとって相当の集中力と気力を必要とする。

そのような状態の時に、「なぜ脳の物理的反応が痛いという感覚を引き起こすのか?」と問う余裕などとてもない。

幼児を見ていると、彼らはただ生きているだけで楽しそう。
知り合いの男の子(4歳)は「これ何?」「なんで?」を連発し、街を歩くだけで浮き浮きし、いつも体をくねくね躍らせている。もちろん彼らは、そうやって世界や社会の関係性を学んでいくのだろう。
しかし、それ以前に、彼らは世界を観察すること自体を楽しんでいる。この未知の世界を。
今僕が部屋を見回してみて、僕に理解されていない未知の物や事態はあるだろうか? 一つもない。全て僕は理解している。
いや、正確に言えば、僕が完全に理解している関係性の網の目によって、僕が理解不可能な世界のありのままの現象が隠されているだけなのだろう。幼児は関係性を理解できないゆえに、ありのままの剥き出しの世界が不思議であり、面白いのだろう。

人は、未知の世界に接していないと生きていけない不思議な生き物だと思う。
そういえば、僕も子供の頃は、一人で土をいじって虫を探すだけで時間が過ぎていった。
いつから僕は、何かの目的や意味がないと生を楽しめなくなったのだろうか?
もし、全世界を理解している神がいるとすれば、彼ほど退屈な人生を歩んでいる人はいないだろう。

年を重ねれば重ねるほど、関係性と付き合うのは得意になるが、それに反比例して世界をありのままに見ようとする感性は失われる。
もし幼児の眼で、世界や己の存在を見ることができるようになれば、どれだけ日常の世界が不可思議に満ちていることか。


・・にもかかわらず、明日からも忙しいのだ。
 

*1:何も考えられないというか、仕事の方の思考を別のことで途切らせたくないと言った方が適切か。