僕の問い 「本物−見え」の世界観 

さて、新しい場で始めるにあたって、原点に戻って考えようと思う。それは、次の問いである。

   「はたして、脳が心や世界を生み出すのだろうか?」

これは、「物質から心が生まれるのか?」と言い換えてもいい。

通常我々は世界を、「物質」と、感情や思考といった「心」の二つのカテゴリーから成ると考えている(物心二元論*1)。これは、人間から独立して成り立っている世界(本物の世界)と、人間の認識を通して見た世界(見えの世界)を分けることでもある*2。中には、「なんで僕らが見ている世界は本物でなくて、見かけの世界なの?」と疑問に思う人もいるだろう。しかし、生物によってそれぞれの知覚世界が異なっていることを考慮すれば、人間が認識する世界も、所詮人間の知覚を通して認識された見えの世界であることがわかる。そして、人間が己の知覚作用を通さずに世界に接することができない以上、我々はけっして本物の世界を認識することはできない。

世界を「本物−見え」に分離する世界観は、近代哲学から産まれた。反二元論を標榜する哲学陣営から多くの批判を受けながらも、科学理論を支える土台として生き続けてきた。現代脳生理学の華々しい登場によって、科学者だけでなく、”科学的視点で物を見る”*3一般人にとっても極当たり前の世界観となった。

これからここでやろうとすることは、この脳生理学的二元論「本物−見え」の世界は本当に正しいのか?という古くて新しい議論を、自分なりにゆっくりと追ってみることである。(04/2/19) 

*1:世界の存在を「物」と「心」に分類するこの思想は、世界の見方を一つ増やしただけにとどまらず、世界と人間との関係を根本的に変化させた。この思想が現れたのは、ガリレオニュートンらの科学革命と同時期だが、目に見えて変革の顕著な科学革命と異なり、こちらの変化は、ほとんどの人に気づかれないまま、潜在的に心の奥底を蝕んでいった。一体何が起こったのか? それは後に見ることになるだろう。

*2:「物と心」の二元論と、「本物−見え」世界の二元論は、それぞれ存在論、認識論として考えられる。この両者は密接につながっている。存在論的に世界を捉えることが目的であるが、当面はその手がかりとして、認識論的見地から考えてみる。

*3:” ”で強調したのは、日常生活では、科学的視点で世界を見ている人などほとんどいないからである。たとえそれが科学者でも。科学的視点とは、世界を認識する時の思考の枠組みの一つである(id:Paul:20040225)。しかし、多くの人は、この枠組みだけが本物の世界を描写しているのだと錯覚する。その結果、その枠組み内での約束事が、その枠組みの母体である我々の日常世界を規定する逆転現象が起こる。この議論は別項を設けて述べるつもりである。

唯物論者は観念論者か?

現代科学の花形、脳生理学を保証人に持つこの「本物−見え」の世界観は、よく考えてみれば、オカルト的な奇妙さで成り立っていることがわかる。「本物−見え」の世界観とは、簡略化して言えば、「外部にある本物の世界からの信号を私の身体が受け取り、それを中枢コンピュータである脳が加工する。その結果、見えの世界が現れる」ということである。中枢コンピュータに何かの異常が起こると、世界の見えも変化する。それを裏付ける実験例も豊富に存在する*1。その結果、次のように言われる。

   「脳の状態が、世界の見えの在り方を決める」*2

脳生理学的世界観の持ち主とは、多かれ少なかれ唯物論的思考の持ち主である。つまり、世界の根本原理は物質であり、感情や思考といった心的現象はその派生的産物であると考える人である。当然、心ある生命体がいなくとも、物質は存在すると考える。しかし、よく考えてみれば、彼らのこの考えは己の前提と矛盾していることに気づく。

物質(脳や身体)が心的現象を産み出すと彼は言う。
 彼らが用いる「心的現象」とは何を意味するのか? それは、「感情や思考といった通常いわれる心の働き」だけではなく、我々の目の前にある「物質世界」をも意味する。なぜなら、この世界とは「見え」の世界であるというのが、彼らの世界観の前提としてあるからだ。ということは、「脳が心的現象を産み出す」という言明は、通常心といわれる現象だけでなく、私の身体を含めた世界全体が脳によって産出されると同じことを意味する。*3
ここで、完全なる唯物論は、完全な観念論と一致するという矛盾に突き当たる。
もちろん彼らは、この結果が導かれたことに戸惑いを覚えるだろうし、自らが観念論者と呼ばれることに断固反対する。

ここまでの流れをまとめてみよう。
脳生理学的世界観の前提1.2から、a.bが導かれ、a.bから前提2に矛盾する結論が導かれる。

   前提1 :世界は「本物−見え」で成り立っている。我々が知覚できるのは「見え」の世界だけである。
   前提2 :世界の根本原理は物質である。心はその派生的産物にすぎない。

     a  :脳は心と物質世界、つまり世界全体を産み出す。
     b  :世界を産み出すその脳ですら、脳の観念によって産み出されたものである。

   結論 :完全なる唯物論は完全なる観念論と一致する。(04/2/20) *4

*1:ペンフィールドの実験 :てんかん患者の解釈領を電気的に刺激すると、彼の過去の経験がまるで映画のフラッシュバックのようにありありと追体験された。(解釈領:脳の側頭葉にあり、現在の経験を過去の経験に照らして解釈する働きを担う)(『脳と心の正体』第6章) ただし、この追体験はか1なりいい加減と今ではわかっている。

*2:認識のニューロン原理 :私たちの認識は、脳内のニューロン(脳内N)の発火によって直接生じる。私たちの認識の特性は、脳内Nの発火の特性によって、そしてそれのみによって説明されねばならない。外部からの物理的刺激や感覚器がいかにあるかは一切考慮しない。

*3:「言われることはもっともだが、あなたは、日常使われる『心的現象』という語を拡大解釈している。それゆえ、おかしな結論が導き出されるのだ。知覚された物は、想像や想起で現れる心象とは異なって、通常、心的現象とは言われない」と批判されるかもしれない。この指摘は、ある意味当たっている。だが私はここで、ある問題を考えたいのだ。それは、同じ心あっての出来事にも係わらず、『想像や想起による心象は実在しない』とされ、『知覚された物は(勘違いがあるにしても)存在する』と分類されることだ。たとえば、想像したパンは実在しないが、目で見て触って疑えないものは存在すると言う。本当にそうなのか? 我々の日常言語においては、この存在分類は正しい。しかし、日常言語が正しい世界を描写していないならば? むしろ、日常言語の規則に引きずられて、ありのままの世界を見逃しているのではないか? 僕がここで、「心的現象」で指す意味を拡大したのは、この問題をも考えてみたいからである。 (「聴覚野のNも視覚野のNも、同じNである。なぜ、それぞれの発火が、私たちの心の中に、これほど違うクオリアを持つ感覚を生じさせるのか?」茂木『脳とクオリア』p57)

*4:ここで使用した「観念論」という言葉を僕は、「(私の)世界は観念で成り立っている」という意味で用いました。しかし、「観念論とは、観念的存在が物質的存在の必要条件であると述べるものであり、世界の根本原理を観念と置く論である」という指摘を受けました。それに従えば、僕のこの結論は導かれません。そして、この指摘は正しい指摘だと思うので、ここでの推論を撤回します(記録として残しておくために、削除はしません)。現在は、唯物論者の二つの命題、「物質が世界の根本原理である」と「脳が心を産出する」が果たして両立するのか考察中です。

「本物−見え」論者からの反論

以上の指摘に対して、唯物論的思考をもつ脳生理学的二元論者は次のように反論するだろう。

「なるほど。我々が知覚している世界は、確かに、脳によって産み出された見えの世界である。それは認めよう。しかし、それが即、観念論に結びつくわけではない。この見えの世界は、何の実体もない幻の世界ではなく、本物の世界を起源に持つ。いわば、本物世界の影だ。影は影のみで存在することはない。影が存在するとは、たとえそれが見えなくとも、本物が存在することを示唆している」

「さらに言えば、見えの世界とは、いわば屈折レンズを通して見られた世界である。我々はりんごを見る。その時、見ている対象は実在するりんごである。屈折レンズ(脳)が無から有を産み出しているわけではない。屈折レンズの向こうにあるりんごが実在しなければ、そもそも我々はりんご(の見え)を見ることはできない」

「我々に知覚されている見えの世界は、本物の世界を起源に持つ。その世界とは、物質世界である。また、我々が知覚することを可能とする脳(身体)も物質でできている。つまり、『我々に知覚されている対象』『我々が知覚を可能とするもの』、どちらも物理法則に則った物質である。ゆえに、この世界が脳によって産出された見えであることと、物質がこの世界の根本原理であることに矛盾はない」

彼らの主張をまとめれば、次の通りである。

「『見えの世界』とは、直接ではないが間接的に知覚した世界、いわば屈折レンズを通して見た世界である。”見えているもの”は本物そのものではないが、”見ているもの”は本物である。『本物−見え』は断絶したものではなく、同じ対象の異なった見え方に過ぎない。人間とトンボに”見えている”りんごは異なっているだろう。しかし、”見ている”対象は同一のりんごである」

この考えに対する疑念は、次の2点である。

   3-1. 「本物−見え」世界に、屈折レンズの比喩は当てはまるか?
   3-2. 「本物−見え」世界から、「本物は実在する」ことを導き出せるか?

次回はまず、3-1から見ていこう。((04/2/21)