死を隠蔽する現代 2  

環八沿いに墓地建設反対の看板があった。
どうやら住宅地の中に墓地を造ることに周辺の住民が反対しているようだ。
彼らの言い分では、墓地は彼らの居住環境を壊すらしい。
ここで問題となっている環境を壊すとは、衛生的な問題ではなく、日常の生活の場に「死」が入り込むことを指しているのだろう。

現代は徹底的にリアルな死を隠蔽する時代である。
では日常の場に死が存在しないかと言えば、リアルな死は隠蔽されるがバーチャルな死、つまりテレビやゲーム、小説・漫画でひどく誇張された死は巷に氾濫している。
この現象は、死を畏れ、敬った昔とは正反対である。
昔はリアルな死は日常の生活の場に入り込んでいた一方、バーチャルな死、昔で言えば軽軽しく死を口にすることを禁じた。
バーチャルな死は我々の生に何の影響も与えないが、リアルな死は生に重大な影響を与える。
生の意味は必ず死とワンセットにされて考えられた。そこでは死は生と対比され、我々の存在は何らかの意味付け、物語化されて、我々の日常の世界の中に組み込まねばならない*1。宗教的な「物語」とは、死をも含めた物語である。生の世界のみで構成された現代の「物語」とは根本的に立場を異にしている*2

結局、リアルな死を隠蔽することは我々の世界観に何をもたらすのか?
たびたび引用するパスカルの次の言葉
「我々は断崖(死)を直視するのを怖れて、目隠しをしてから断崖に向って突っ走る」
世間では生を充実させる為の指南書、遊戯にあふれている。僕にはそれが「目隠し」に思えてしょうがない。生を充実させようとする努力すればするほどリアルなが生を隠蔽する。
環八沿いの墓地反対運動も同様である。

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現代は哲学にもっとも遠い時代である。
哲学が現代において意義を失ったと言われるのは、科学が哲学に取って代わったからだけではない。
死を隠蔽したからである。死を隠蔽することにより、それと表裏一体である生、つまり存在そのものが隠蔽された。大森は、「哲学は科学のように発見はしない。今そこにあるが、しかし隠されているものを見て取ることだ」という。
死が隠蔽され、生(存在)が全てとなれば、生は空気と同じく当たり前すぎて意識されないものとなる。
そのとき、哲学的な存在への問いなど起こるはずもない。

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最近、母の生まれ故郷である長崎県壱岐に住んでいた母の友人が亡くなった。
彼女は母の母、つまり僕の祖母の友人で、母が生まれた時から母をかわいがっていた人だった。
彼女の死によって、現在壱岐に住んでいる母の知り合いは皆無になった。
母は、「これで壱岐との縁が切れたね」と電話口で僕に呟いた。その声はとても寂しそうだった。
年を取れば回りの知り合いは順々にこの世から去っていく。至極当然のことだ。だが、この母の寂しげな呟きを聞いた時、恐ろしくも残酷なことが起こっていると感じた。
母が物心を持ち始めたときからの記憶を共有してきた人がこの世から去る。それも一人一人順々に、まるでオセロのように、気がつけば自分の周りは真っ黒の駒に囲まれていることに気づく。母にとって彼女の世界が少しずつ狭められているように感じるのではないだろうか?
僕は己の死はあまりにも実感がないため自分の死は恐ろしくないが、両親の死を想像することは恐ろしい。

僕にとって哲学とは、日常の関係性から離れ世界をありのままに見ることにより、世界の存在、僕が存在していることの不思議さを実感し、そこで見えている世界を言葉に定着する行為である。しかし、日常の関係性の中でほぼ全ての時間を過ごしている僕には、そこから距離をとることは難しい。そのとき僕は、「僕は一ヵ月後に死ぬ」と思い込む。
僕はあと一ヵ月後には消え去るという馬鹿馬鹿しい妄想をすることですこし世間と距離をとることができる。

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3人の日本人がイラクで拉致された。死と隣り合わせの彼らの脳裏に浮かぶものは何だろうか。

*1:人間は未知のものをそのまま放っておくことのできない性質を持つ。何らかの意味付けを必要とする。

*2:以前インドのバナラシのガンジス川のほとりで死者が焼かれているのをボーっと見ていたことがある。その死体は川に流されるが、その川では大勢の子供達が水遊びをし、大人たちが聖なる儀式らしい事をしている。宗教的な相違であるが日本では考えられない。彼らにとって生と死は生活の場で一体化している