「私の世界」と「客観世界」の統合  

クワインホーリズムという考え方は、僕の引っかかりを和らげてくれた。
それは、科学に代表される客観的な記述で描かれた世界と、僕の個人的な経験的世界とのどちらが根源的なものかという疑問に対してである。
ホーリズムとは、簡単にいえば次のような考え方である。

「我々の知識体系(科学的世界や哲学的世界等)は、縁に沿ってだけ経験と接する人工の構築物である。縁に衝突してくる経験的事態をうまく取り込みながら、中心部の抽象的な理論的心柱を築きあげる。我々はこの構築物を通して世界を解釈しているのであり、ある体系において真である経験的言明が、別の体系では偽であることもありうる。絶対的な構築物は存在しない*1

これは、客観的に正しい唯一の世界描写方式は存在しないことを意味する。
さらに重要なことは、この理論が、科学のような厳密な理論体系だけでなく、我々の日常の世界の見方や信念においても当てはまるということである*2

たとえば僕を含めた若い日本人にとって、永遠の魂、輪廻する魂の存在を信じることは難しいだろう。その理由は、我々の住む科学的構築物はそのようなものを受け入れずとも世界の合理的な解釈を可能とするし、魂の存在はむしろこの体系に反するからである。もし受け入れようとすれば、構築物の外壁だけでなく理論的心柱にも大幅な変更を加えねばならない。我々の「保守性」は、この変革が起こらないように、受け入れるのではなく追い出すことを選択する。
「馬鹿馬鹿しい原始的な考え方だ」と。

しかし、「永遠の魂」の存在が否定されるのは、この科学的構築物を選択したからであり、客観的にそれが偽であることが証明されたからではない。その魂の存在をも内に含む構築物が新たに出現すれば、永遠の魂は我々の日常の信念体系に受け入れられるだろう。

大森荘蔵は『知の構築とその呪縛』で、自然を死物と見るのではなく、我々人間とおなじく生命あるものとしてみるアニミズムはけっして未開の思考ではなく、単に現在の我々の信念体系からはみ出した──科学的に証明できない──思考方法であるゆえにそう考えられるのだと述べる*3
彼らの構築物においては、アニミズムも合理的な思考方法であると。

僕はもともと、通常の世界観──それは、素朴な科学的世界観という意味だが──という構築物の中で生きてきた。
素朴な科学的世界観とは、世界は僕が生まれる前から、そして僕が死んだ後も淡々と流れていく物質世界であり、僕は、その世界の一点景として存在する物質的身体であり、そこに何らかの魔法によって心を吹き込まれた存在者であるという考え方である。(これを客観的世界観と呼ぼう。そして僕は今でもこれを信じている*4
その世界は僕の存在に関わりなく、独立して存在している。その世界から発せられる一部の信号を僕は受け取って、僕の知覚世界が現れる。全世界の極一部である僕の世界と、それ以外の残りの世界とは、同等の比重で存在している。

ところが哲学を学ぶことにより、別の見方もあることを初めて知った。
それを客観的世界観と対称的であるゆえに主観的世界観と呼ぶならば、主観的世界とは、徹頭徹尾私の立場から描写した世界である。私が現在いるのは、ここ私の部屋であり、今現在である。「今」「ここ」という場所は、他とは比較にならないほどの重要性をもつ。また、世界は私が経験する世界でしかありえない。
この世界観の下では、客観的世界は、各々の主観的世界から抽出された観念的構築物にすぎない*5
一見馬鹿馬鹿しい世界観であるが、我々が経験できるのは主観的世界でしかありえないというところに説得力をもつ。

問題はどちらが根源的な世界なのかということだった。
客観的世界が存在するゆえに僕の主観的世界が存在するのか、僕(や他者)の主観的世界から客観的世界が構築されたのか。

しかしホーリズムを知って、この二つの世界の見方は、人間の基本的な世界の見方であり、視点の違いに過ぎないと思うようになった*6
我々はこの二つの世界観を使い分けながら生きている。どちらが客観的に正しい世界の見方かを問うのではなく、この基本的な世界観を統合する方が大切なのだと考えるようになった。

ここで大森に話を戻すが、大森は想起・想像された心像は客観的に存在しているという。
僕が富士山を思い浮かべている時、その富士山は心という個人的な領域に閉じ込められた像ではなく、実際の富士山と同じく静岡県に存在している。実在の富士山と想像された富士山は、存在の仕方が異なっているだけで、実際に私の外部に存在しているのだと主張する*7

なぜこのような奇妙な考え方をするかといえば、心と物質を分離した偏向的な科学的構築物に代わる新たな棲屋を建造するためである。科学構築物の心柱は物質現象であり、心的現象はその周囲に、いわば離れ屋のように引っかかっているだけであった。

重ね描きとは、心的現象を排除した科学的信念体系さえも包み込む、心的現象をも含めたメタ構築物を新築する、スケールの大きな試みだったと思う。従来分離されていた客観的世界と主観的世界の統合こそ彼の目指すところだったのかなと。
そのためには、次々と彼の新築物に衝突してくる経験的事態を取り入れるため、ある意味どう考えてもこじつけとしか思えない弁明で苦心していたのだと気づいた。

その試みが成功したのか、失敗したのかわからない。
だが、「私の世界」と「客観的な世界」を融合させる新たな理論的構築物を築きあげるという彼の目的は、我々に課せられた一つの使命なのかもしれない。
 

*1:精しくはクワイン『経験主義のふたつのドグマ』 id:Paul:20031206

*2:輪廻する魂、世界を創造した神、といった理論的支柱を持つ宗教は、科学的構築物に対峙する代表的な構築物であろう。この宗教的構築物は、その心柱に反する経験的事態を、あるときは取り入れるために縁を変更し、あるときは大幅に改造することにより建て直し、現代の科学的構築物とつかず離れず、流動的に生き延びてきた。しかし、この構築物における真なる言明が、科学的構築物において偽であるがゆえに、それが否定されるわけではない。クワイン自身も、物理的対象とホメーロスの神々の間には文化的措定物としての相対的な違いがあるにすぎないと述べる。

*3:参考「大森荘蔵『知の構築とその呪縛』を読む」 id:Paul:20030131

*4:信じているというより、その考え方が身に染み付いて抜けられないといったところか。

*5:主観的世界で僕が思い起こすのは、ハイデガー存在と時間』の現存在分析である。

*6:ウィトゲンシュタインの感覚言語、物理言語も参考になった。http://d.hatena.ne.jp/Paul/200309

*7:クワインの論文『何があるのかについて』にも同様の議論がある。まだ目を通していないが。