死を隠蔽する現代 2  

環八沿いに墓地建設反対の看板があった。
どうやら住宅地の中に墓地を造ることに周辺の住民が反対しているようだ。
彼らの言い分では、墓地は彼らの居住環境を壊すらしい。
ここで問題となっている環境を壊すとは、衛生的な問題ではなく、日常の生活の場に「死」が入り込むことを指しているのだろう。

現代は徹底的にリアルな死を隠蔽する時代である。
では日常の場に死が存在しないかと言えば、リアルな死は隠蔽されるがバーチャルな死、つまりテレビやゲーム、小説・漫画でひどく誇張された死は巷に氾濫している。
この現象は、死を畏れ、敬った昔とは正反対である。
昔はリアルな死は日常の生活の場に入り込んでいた一方、バーチャルな死、昔で言えば軽軽しく死を口にすることを禁じた。
バーチャルな死は我々の生に何の影響も与えないが、リアルな死は生に重大な影響を与える。
生の意味は必ず死とワンセットにされて考えられた。そこでは死は生と対比され、我々の存在は何らかの意味付け、物語化されて、我々の日常の世界の中に組み込まねばならない*1。宗教的な「物語」とは、死をも含めた物語である。生の世界のみで構成された現代の「物語」とは根本的に立場を異にしている*2

結局、リアルな死を隠蔽することは我々の世界観に何をもたらすのか?
たびたび引用するパスカルの次の言葉
「我々は断崖(死)を直視するのを怖れて、目隠しをしてから断崖に向って突っ走る」
世間では生を充実させる為の指南書、遊戯にあふれている。僕にはそれが「目隠し」に思えてしょうがない。生を充実させようとする努力すればするほどリアルなが生を隠蔽する。
環八沿いの墓地反対運動も同様である。

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現代は哲学にもっとも遠い時代である。
哲学が現代において意義を失ったと言われるのは、科学が哲学に取って代わったからだけではない。
死を隠蔽したからである。死を隠蔽することにより、それと表裏一体である生、つまり存在そのものが隠蔽された。大森は、「哲学は科学のように発見はしない。今そこにあるが、しかし隠されているものを見て取ることだ」という。
死が隠蔽され、生(存在)が全てとなれば、生は空気と同じく当たり前すぎて意識されないものとなる。
そのとき、哲学的な存在への問いなど起こるはずもない。

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最近、母の生まれ故郷である長崎県壱岐に住んでいた母の友人が亡くなった。
彼女は母の母、つまり僕の祖母の友人で、母が生まれた時から母をかわいがっていた人だった。
彼女の死によって、現在壱岐に住んでいる母の知り合いは皆無になった。
母は、「これで壱岐との縁が切れたね」と電話口で僕に呟いた。その声はとても寂しそうだった。
年を取れば回りの知り合いは順々にこの世から去っていく。至極当然のことだ。だが、この母の寂しげな呟きを聞いた時、恐ろしくも残酷なことが起こっていると感じた。
母が物心を持ち始めたときからの記憶を共有してきた人がこの世から去る。それも一人一人順々に、まるでオセロのように、気がつけば自分の周りは真っ黒の駒に囲まれていることに気づく。母にとって彼女の世界が少しずつ狭められているように感じるのではないだろうか?
僕は己の死はあまりにも実感がないため自分の死は恐ろしくないが、両親の死を想像することは恐ろしい。

僕にとって哲学とは、日常の関係性から離れ世界をありのままに見ることにより、世界の存在、僕が存在していることの不思議さを実感し、そこで見えている世界を言葉に定着する行為である。しかし、日常の関係性の中でほぼ全ての時間を過ごしている僕には、そこから距離をとることは難しい。そのとき僕は、「僕は一ヵ月後に死ぬ」と思い込む。
僕はあと一ヵ月後には消え去るという馬鹿馬鹿しい妄想をすることですこし世間と距離をとることができる。

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3人の日本人がイラクで拉致された。死と隣り合わせの彼らの脳裏に浮かぶものは何だろうか。

*1:人間は未知のものをそのまま放っておくことのできない性質を持つ。何らかの意味付けを必要とする。

*2:以前インドのバナラシのガンジス川のほとりで死者が焼かれているのをボーっと見ていたことがある。その死体は川に流されるが、その川では大勢の子供達が水遊びをし、大人たちが聖なる儀式らしい事をしている。宗教的な相違であるが日本では考えられない。彼らにとって生と死は生活の場で一体化している

  僕は世界の構成要素なのだろうか?  

世界は僕が生まれる前から存在し、僕が死んだ後も存在し続ける。
世界は僕には関係なく存在し、僕は他人からポールと呼ばれる身体になぜだか理由はわからないが宿っている。
僕は永遠の時間・無限の空間の極微小部分を占め、僕と世界は「世界⊃僕」の内包構造という関係を結んでいる。
その「僕」の項には「ポール」だけでなく、「ジョン」や「エドナ」も同等の権利で代入され、「ポール」を含む全ての存在者が代入されれば、それを「世界」と呼ぶ。
僕も、ジョンやエドナや犬猫、草木、岩石と同じく世界を構成する一要素である。
それゆえ、ジョンやエドナが死んでも世界が続くように、僕が死んでも世界は残る。
ポールとジョンやエドナに、存在的に本質的な区別はない。
たとえ僕が、

「僕はジョンやエドナとは全く異なった在りかたをしている!」

と声高に叫ぼうが、

「客観的には同じですよ。あなたからみてジョンやエドナがその他大勢の世界の構成要素に過ぎないように、あなたもジョンやエドナと同じく所詮は”その他大勢”に過ぎないのですよ」

と切り返される。
僕はこの「その他大勢世界観」を他人と同じく信じているし、将来的にもこの世界観が崩れるとは思えない*1


その一方で、この世界観を崩すものがあるとすれば哲学以外にありえないだろうと期待する。*2

*1:僕は主観言語に則って叫ぶ。それに対して世間の人々は客観言語でこれに反論する。現代は、私やジョン、エドナ始め、全ての存在者を同等の地平に扱って世界を語る客観言語が「公用語」となっている。けっして主観言語が誤っているわけではない。将来、主観言語で世界が、日常が語られる時が来るのだろうか?

*2:なぜなら、科学はこの「その他大勢世界観」の上に築かれているからであり、この土台に疑いの目を向ける変わり者は哲学以外にありえないからである。

  日常と哲学  

先週は忙しかった。

一週間、哲学のことは何も考えられなかった*1
頭の切り替えは得意だと思っていたが、さすがにそんな余裕もなかった。
なんでもそうだが、物事を深く考えようと思ったら、思考を途切らせてはいけない。
一週間も空くとほとんど致命的。

特に僕にとっての哲学は、少し油断すると途端にどこかに逃げていってしまう気まま者。
そうなると、「彼」を呼び戻すのは大変だ。
日常の生活にぴったりと馴染んでいる僕と、世界から身を引き離してありのままの世界を見直そうとする僕とは大きく乖離している。
前者から後者の僕へと移行するのは、自然に逆らって思考しなければならない。
なぜだろうか?

日常の僕が意識を向けているのは、具体的な人や物ではなく、それらの関係性で構成された社会全体の関係性の総体であり、哲学はその関係性から逃れることから始まるからだと思う。

他人と接する時、友人として、先輩として、息子として、といった相手との関係によって僕は振る舞いを変えなければならない。そのためにも常に、相手の位置を把握し、そこから僕と相手との関係を読み取らなければならない。

それは人に限らない。物でもそう。
客観的に見れば、僕の周りには無数の事物が存在するが、僕の意識にのぼる物は必ず、そのときの僕と関係を結ばれた物だけである。
僕が車の運転をしている時、僕に見えているものは、スピードメーターであり、信号であり、横断歩道で渡るタイミングを計っている子供である。

僕が社会と深く関われば関わるほど、社会での活動に没頭すればするほど、張り巡らされた関係性の蜘蛛の巣の中に自分をいかに適切に配置させるか意識を集中しなければならない。

一度、その関係性を解読する思考方法に慣れてしまえば、そこから身を引き剥がして、その関係性を消去した後に残る世界、関係性を成り立たせている土台そのものを見つめるのは難しい。
哲学的に考えるとは、僕にとって相当の集中力と気力を必要とする。

そのような状態の時に、「なぜ脳の物理的反応が痛いという感覚を引き起こすのか?」と問う余裕などとてもない。

幼児を見ていると、彼らはただ生きているだけで楽しそう。
知り合いの男の子(4歳)は「これ何?」「なんで?」を連発し、街を歩くだけで浮き浮きし、いつも体をくねくね躍らせている。もちろん彼らは、そうやって世界や社会の関係性を学んでいくのだろう。
しかし、それ以前に、彼らは世界を観察すること自体を楽しんでいる。この未知の世界を。
今僕が部屋を見回してみて、僕に理解されていない未知の物や事態はあるだろうか? 一つもない。全て僕は理解している。
いや、正確に言えば、僕が完全に理解している関係性の網の目によって、僕が理解不可能な世界のありのままの現象が隠されているだけなのだろう。幼児は関係性を理解できないゆえに、ありのままの剥き出しの世界が不思議であり、面白いのだろう。

人は、未知の世界に接していないと生きていけない不思議な生き物だと思う。
そういえば、僕も子供の頃は、一人で土をいじって虫を探すだけで時間が過ぎていった。
いつから僕は、何かの目的や意味がないと生を楽しめなくなったのだろうか?
もし、全世界を理解している神がいるとすれば、彼ほど退屈な人生を歩んでいる人はいないだろう。

年を重ねれば重ねるほど、関係性と付き合うのは得意になるが、それに反比例して世界をありのままに見ようとする感性は失われる。
もし幼児の眼で、世界や己の存在を見ることができるようになれば、どれだけ日常の世界が不可思議に満ちていることか。


・・にもかかわらず、明日からも忙しいのだ。
 

*1:何も考えられないというか、仕事の方の思考を別のことで途切らせたくないと言った方が適切か。

  「私の世界」と「客観世界」の統合  

クワインホーリズムという考え方は、僕の引っかかりを和らげてくれた。
それは、科学に代表される客観的な記述で描かれた世界と、僕の個人的な経験的世界とのどちらが根源的なものかという疑問に対してである。
ホーリズムとは、簡単にいえば次のような考え方である。

「我々の知識体系(科学的世界や哲学的世界等)は、縁に沿ってだけ経験と接する人工の構築物である。縁に衝突してくる経験的事態をうまく取り込みながら、中心部の抽象的な理論的心柱を築きあげる。我々はこの構築物を通して世界を解釈しているのであり、ある体系において真である経験的言明が、別の体系では偽であることもありうる。絶対的な構築物は存在しない*1

これは、客観的に正しい唯一の世界描写方式は存在しないことを意味する。
さらに重要なことは、この理論が、科学のような厳密な理論体系だけでなく、我々の日常の世界の見方や信念においても当てはまるということである*2

たとえば僕を含めた若い日本人にとって、永遠の魂、輪廻する魂の存在を信じることは難しいだろう。その理由は、我々の住む科学的構築物はそのようなものを受け入れずとも世界の合理的な解釈を可能とするし、魂の存在はむしろこの体系に反するからである。もし受け入れようとすれば、構築物の外壁だけでなく理論的心柱にも大幅な変更を加えねばならない。我々の「保守性」は、この変革が起こらないように、受け入れるのではなく追い出すことを選択する。
「馬鹿馬鹿しい原始的な考え方だ」と。

しかし、「永遠の魂」の存在が否定されるのは、この科学的構築物を選択したからであり、客観的にそれが偽であることが証明されたからではない。その魂の存在をも内に含む構築物が新たに出現すれば、永遠の魂は我々の日常の信念体系に受け入れられるだろう。

大森荘蔵は『知の構築とその呪縛』で、自然を死物と見るのではなく、我々人間とおなじく生命あるものとしてみるアニミズムはけっして未開の思考ではなく、単に現在の我々の信念体系からはみ出した──科学的に証明できない──思考方法であるゆえにそう考えられるのだと述べる*3
彼らの構築物においては、アニミズムも合理的な思考方法であると。

僕はもともと、通常の世界観──それは、素朴な科学的世界観という意味だが──という構築物の中で生きてきた。
素朴な科学的世界観とは、世界は僕が生まれる前から、そして僕が死んだ後も淡々と流れていく物質世界であり、僕は、その世界の一点景として存在する物質的身体であり、そこに何らかの魔法によって心を吹き込まれた存在者であるという考え方である。(これを客観的世界観と呼ぼう。そして僕は今でもこれを信じている*4
その世界は僕の存在に関わりなく、独立して存在している。その世界から発せられる一部の信号を僕は受け取って、僕の知覚世界が現れる。全世界の極一部である僕の世界と、それ以外の残りの世界とは、同等の比重で存在している。

ところが哲学を学ぶことにより、別の見方もあることを初めて知った。
それを客観的世界観と対称的であるゆえに主観的世界観と呼ぶならば、主観的世界とは、徹頭徹尾私の立場から描写した世界である。私が現在いるのは、ここ私の部屋であり、今現在である。「今」「ここ」という場所は、他とは比較にならないほどの重要性をもつ。また、世界は私が経験する世界でしかありえない。
この世界観の下では、客観的世界は、各々の主観的世界から抽出された観念的構築物にすぎない*5
一見馬鹿馬鹿しい世界観であるが、我々が経験できるのは主観的世界でしかありえないというところに説得力をもつ。

問題はどちらが根源的な世界なのかということだった。
客観的世界が存在するゆえに僕の主観的世界が存在するのか、僕(や他者)の主観的世界から客観的世界が構築されたのか。

しかしホーリズムを知って、この二つの世界の見方は、人間の基本的な世界の見方であり、視点の違いに過ぎないと思うようになった*6
我々はこの二つの世界観を使い分けながら生きている。どちらが客観的に正しい世界の見方かを問うのではなく、この基本的な世界観を統合する方が大切なのだと考えるようになった。

ここで大森に話を戻すが、大森は想起・想像された心像は客観的に存在しているという。
僕が富士山を思い浮かべている時、その富士山は心という個人的な領域に閉じ込められた像ではなく、実際の富士山と同じく静岡県に存在している。実在の富士山と想像された富士山は、存在の仕方が異なっているだけで、実際に私の外部に存在しているのだと主張する*7

なぜこのような奇妙な考え方をするかといえば、心と物質を分離した偏向的な科学的構築物に代わる新たな棲屋を建造するためである。科学構築物の心柱は物質現象であり、心的現象はその周囲に、いわば離れ屋のように引っかかっているだけであった。

重ね描きとは、心的現象を排除した科学的信念体系さえも包み込む、心的現象をも含めたメタ構築物を新築する、スケールの大きな試みだったと思う。従来分離されていた客観的世界と主観的世界の統合こそ彼の目指すところだったのかなと。
そのためには、次々と彼の新築物に衝突してくる経験的事態を取り入れるため、ある意味どう考えてもこじつけとしか思えない弁明で苦心していたのだと気づいた。

その試みが成功したのか、失敗したのかわからない。
だが、「私の世界」と「客観的な世界」を融合させる新たな理論的構築物を築きあげるという彼の目的は、我々に課せられた一つの使命なのかもしれない。
 

*1:精しくはクワイン『経験主義のふたつのドグマ』 id:Paul:20031206

*2:輪廻する魂、世界を創造した神、といった理論的支柱を持つ宗教は、科学的構築物に対峙する代表的な構築物であろう。この宗教的構築物は、その心柱に反する経験的事態を、あるときは取り入れるために縁を変更し、あるときは大幅に改造することにより建て直し、現代の科学的構築物とつかず離れず、流動的に生き延びてきた。しかし、この構築物における真なる言明が、科学的構築物において偽であるがゆえに、それが否定されるわけではない。クワイン自身も、物理的対象とホメーロスの神々の間には文化的措定物としての相対的な違いがあるにすぎないと述べる。

*3:参考「大森荘蔵『知の構築とその呪縛』を読む」 id:Paul:20030131

*4:信じているというより、その考え方が身に染み付いて抜けられないといったところか。

*5:主観的世界で僕が思い起こすのは、ハイデガー存在と時間』の現存在分析である。

*6:ウィトゲンシュタインの感覚言語、物理言語も参考になった。http://d.hatena.ne.jp/Paul/200309

*7:クワインの論文『何があるのかについて』にも同様の議論がある。まだ目を通していないが。

  想起・想像において心像は伴うか?  

今僕は、自分の部屋にいる。
目を閉じて、先週末のこの部屋の風景を思い出している。
久しぶりに会った友人の笑顔がそこには見え、視線を下ろすと畳の上には、コーヒーカップとアイス、沖縄土産のお菓子が乱雑に置かれている。視覚風景だけでなく、「簿記の2級受かりましたよ」「奨学金がもらえるようになったからバイトを止めます」といった会話の内容も聞こえてくる。
だがその時僕は、当時の状況を映像的に、いわゆる想起心像として心に浮かべているのだろうか?*1

確かに今でも、そのときの部屋の状況を細かく言い当てることができる。
「あなたの背後の窓のカーテンは閉められていますか?」といった細部を問う質問に、目を閉じてじっと考え込むことで、「ええ、閉じられています」と、正確に答えることができる。だがその思い出しは、今現在の視野に映る情景を見ながら言い当てるのと同様に、想起心像をいわば「心の眼」で凝視したゆえなのだろうか。
今現在の視覚風景の中での部屋のカーテンの状態を確認するのと、想起された部屋のカーテンの状態を確認する仕方は同じなのだろうか。はたして想起によって像は現れるのか。

試しに、目を開けて現在の部屋の情景を見ながら先週末の部屋の情景を思い浮かべてみる。だが、問われた細部を言い当てることはできても、今見えている視覚風景のどこを探しても思い出された部屋の像は見当たらない。

想起とは、確かに映像として思い出しているようにも思えるし、その一方で、その映像を凝視しようと集中すれば、瞼の裏には暗闇とまだらな光模様が行き交っているだけで映像などどこにも無い様にも思える。ただ一ついえるのは、もしそれが像だとしても視覚風景とはまったく異なった在り方をしているということである。同様のことは、想像や予期についてもいえる*2

つまりは、視覚風景以外に我々の心に像を結ぶ現象はありえるのだろうか。
想起されるものは過去の体験であり、そしてこの体験は当時の視覚映像であるゆえに、それを再び喚起させたときにも、当時と同じ映像が浮かぶと考えてしまうのではないだろうか*3

その上で次のように問う。

想起・想像において像を結ぶと考えるこの誤謬が、視覚風景でさえも視覚心像として外部世界を心の中に写像した「写しの世界」と考える二元論的思考を許容する一つの土壌ではないだろうか?

想起・想像において現れる「何か」は他者から見えないばかりか、本人でさえどこにあるのか見当もつかない。だが、今目の前の視野風景とは異質の場所、存在の仕方をしていることは明白である。それゆえ、私固有の領域を想定し、それらの心像はそこに収まっている私泌的な風景だと考える*4。いわば、一般的な三角形が現実世界には見当たらないゆえに、イデア界という形而上学的世界を想定したように、現実世界に見当たらない想起心像、想像心像、さらにはそこから関連づけられた知覚心像でさえも、「心の中」という形而上学的世界に押し込んだのではないだろうか。

語が意味するものは、それによって思い浮かばれた心像ではない。
電話の声を聞いて、「ああ、お母さんか」と理解できるのは、母親の顔の映像が浮かんだからでもない*5。少なくとも必要条件ではない。語も声も、心像を通さずにそれ自体で直接対象を理解する。それと同様に、「想起する」「想像する」とは、過去や空想上の状況を映像として思い浮かべることでなく、「意味」として理解する行為ではないだろうか*6

記憶心像を結ぶとは、過ぎ去った過去の体験を脳内データとして保存し、必要な時にそのデータを映像に変換することを意味する。しかし、なぜ脳内データという物理現象が映像という感覚現象を呼び起こすのか、両者の断絶を埋める術はない。そのような不可思議な断絶を考えず、記憶とはその時の情景を意味として記憶することであり、想起とはその意味を取り出して、再解読することである、と考える方が合理的であると私には思える。
つまり我々は、知覚風景という一枚の映像を意味に変換して保存し、その意味のまま呼び出し、解読しているのであり、それが「想起する」と呼ばれる行為ではないだろうか?*7

*1:他の人にももう一度確認してもらいたいのだが、想起するとき、本当に映像を、少なくとも視覚と同型の像が心に浮かぶのだろうか?

*2:夢はどうだろうか。「夢はおきてから見るものである」といわれるが、睡眠中の夢は映像でありえるのか。

*3:音を思い出すときも同様である。想起において現れるのは「音」ではない。昨日の友人との会話を思い出すときに、たしかに彼の声の調子や声色まで再現できるだろうが、それらは聴覚を必要としない。耳をふさいでもその「声」にはなんら影響を与えない。彼の友人との会話を思い出すとは、彼の声を聴覚的に再現することではない。

*4:私泌的なものは主観的、その人だけのもので、誰にでも共有されるものは客観的なものとされるが、その分類は「非実在-実在」を示すのか。

*5:id:Paul:20011202

*6:では「意味として理解する」とはどういう意味だろうか? 言語としてということか? もしそうであるならば、言語的思考能力のない幼児や言語脳を破壊された人は記憶がないことになる。しかし、言葉の話せない幼児でさえ、昨日しまわれたおもちゃの場所を思い出すことができる。それとも、言語を使用することはできなくとも、言語的思考回路は備わっているということだろうか。言語的思考がなくとも自由自在の想起は可能か。動物、昆虫。

*7:想起、想像した時に心像を結ぶかどうかは、視覚風景を見ているときと、目をつむってその情景を思い浮かべている時の脳の状態を比較する実験があればわかるのだが見つからない。それに近い実験は以下の通り。想像活動をしている時の脳の活動状態を調べた実験がある。「テレビ」と「スイカ」という二つの語からそれぞれをイメージさせ、その次に「スイカテレビ」という現実には存在しないものを想像させる。その時、主に活動する脳の部位は言語に関する左の前頭前野である。これはテレビとスイカの言葉の概念を結び合わせているため、言語的な脳が活動しているとも解釈できる。だが、テレビとスイカの絵を見せて、その絵を融合させても、同様に言語脳が活動する。空想する時は、言語と関係する左前頭前野が活性化する。ここから、創造性は、言語の働きによる部分が大きいと結論できる。(『目で見る脳と心』p74)。また、記憶を「取り込み(覚えようとする段階)」「保持」「取り出し(思い出そうとする段階)」の3工程に分けて脳の活動を調べれば、「取り込み」と「取り出し」では同じような状態となる。その時、空間的な位置情報を処理する中枢のある頭頂葉が活性化する。ただし、この実験では「取り込み」も「取り出し」もどちらも視覚野を使用する実験なので、それで「取り出し」時に視覚的な心像が結ばれるとは結論付けられないが。

  私と世界の境界 メモ  

私と世界の境界はどこなのだろうか?

通常私とは、物質的な私(身体)と、心的な私(心*1)の二つの対象を指す。
このとき我々は、心とは身体のどこかに宿るか、もしくは身体そのものと考えがちである。特に、想像や想起による心象は、その人の身体、おそらくは脳内での出来事だと考える。
それは、

  1. 心と身体の間には強い関連性がある*2
  2. 身体がどこに存在しているかは明らかであるが、心の所在を示すことはできない*3
  3. 他人の心は私からは見えない。

それゆえ心とは、内部の見えない身体のどこかで内属していると考えてしまう。
この見解を再考するにあたって、身体と心の関係を幾つか挙げてみよう。

  1. 視界右下に見える腕は、私の意思に従って自由に動かすことができた。
  2. だが、3m先に見える腕を私がいくら念じても動かすことはできなかった。
  3. よって、1の腕だけが私に属すると考えられる。(心→身体)
  1. 右隣りに見えている太ももをつねっても、何も感じなかった。
  2. 目の前の太ももをつねってみると、痛みが走った。
  3. よって、私の太ももは目の前のそれである。(身体→心)
  1. 机の向こうにあるライトスタンドは、私がいくら念じても動かない。
  2. さらに近寄って叩いて見たが、私の感覚にも何の変化も現れなかった*4
  3. よってスタンドは私ではない。

これらの例から、物質としての私(身体)を規定する本質的な条件は、その物理的性質にあるのではなく、私の心と直接影響を与えあうかどうかにあることがわかる。この条件によれば、通常私の身体と呼ばれるもののみが私であると考えるのは自然である。

だがはたして、そうだろうか?
別の例を見てみよう。

私が道端に猫の死体を見つけたとする。
その死体からは内臓が飛び出、生々しい血飛沫が飛び散っている。
そのとき私の心には、「可哀想」「気持ち悪い」といった感覚的な印象が生じるだろう。
さらには、実家に買われている飼い猫の姿(想像心像)や、昔遊んだ野良猫の面影(想起心像)が浮かび上がるかもしれない。
また、普段温厚な友人の怒った顔は、「俺何かやったっけ?」「誰かと喧嘩したのか?」といった様々な憶測を私の心に呼び覚まし、百年前の文学の古典を耽読すれば、様々な思いや観念、心像が現れる。
これらの例からいえば、私の身体ではないものでも、私の心には充分影響を与えるわけである。

ここで次のように問う。

前述したとおり、私の身体と、他者の身体・他の物質との境界を決める本質的な根拠を、その物体が私の心に直接影響を及ぼすことであるとするならば、私の太ももが私に属するのと同様、猫の死骸も私に属するのではないか?
つねられることで私の心を変化させた「太もも」と、それ以上に複雑な心象を私の心に引き起こした「猫の死骸」との本質的な違いはあるのだろうか?

この問いに対して、次のような反論を想定する。

  1. (私の)太ももは私の心にだけ影響を与えるが(私泌性)、猫の死骸は他者の心に影響を与える(公共性)。私泌的な領域を『私』と定義する。
  2. 痛みの感覚を引き起こすものは全て私であり、感情、思考等を引き起こすものは私以外にもありえる。つまり、同じ心の現象でも、その内容によって、私に属するか属さないが変わってくる。

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一つの結論を先取りして述べる。
身体という物質的レベルで考えば、「私」とは身体で境界づけられる。これは良い*5。だが、心のレベルで言えば、私は身体を超えて世界に拡がっている。それも身体のように空間的に固定されていず、自由に伸縮する*6。空間的に身体の外部にある猫の死骸から、様々な感情、心象が私に生じるのは、心が身体を超え出ているからである。猫の死骸からある物理信号が出て、それが脳内反応を起こし、”それが原因で”、可哀想という「色眼鏡」が現れるのではない。可哀想という心が猫の死骸に届いたゆえに猫を見て可哀想だと思うのだ。他人の心が理解できる本質的な条件も、この心の拡張性にある。他者の振る舞いから彼の心を理解するのはその通りだが、それを可能にするのは、この心の拡張性にある。
けっして、脳の機能ゆえではない。

*1:「心」とは、喜怒哀楽やといった感情や痛み、といった感覚、さらには知覚、想起、想像のときに随伴する心的表象すべて。つまりクオリアとする。

*2:私の視界は私の両眼を中心にパースペクティブに構成され、私の身体が動けば、それと共に視界も変化する。聴覚も同様である。つまり知覚風景は私の身体の動きに束縛されている。

*3:心は知覚できないとはある意味、意味不明である。私の心は探さなくとも、今この場にあることは誰にとっても明白であるからである。といって「どこにあるか?」と問われれば、誰も答えられない不思議なものが心である。

*4:だが、スタンドを叩いた手には痛みが走る。これは私の太ももをつねった時に生じる痛みとどこが違うのだろうか? 行為を起こしたもの(叩いた手、つねった指)の痛みと、行為を起こされた相手(スタンド、太もも)の痛みに区別はあるのだろうか? たしかに、(私の)太ももは誰がつねっても私に痛みは走るが、スタンドは私が叩かない限り痛みは生じない。それゆえ、スタンドを叩いた時の痛みは、叩いた手の方に属すると考えられる。

*5:「身体から流れ出た血液」や「切り落とされた指」はどうか、と問えばわかるように、物質的な「私」の境界を厳密に定めることは不可能であるし、それを求める必要もない。その厳密さは、所詮文化や個人的な価値観や考え方によって変わってくる「定義」の問題であるからだ。重要なのは、我々が通常「身体」と考えている根拠は、現在もしくはかつて、我々の心と影響しあっている一塊の物体(身体)である。盲人にとっての杖は、彼の身体に含めてよいか?人工心臓弁は装着者の身体といってよいか? と問えるがここでは問わない。

*6:たとえば、演劇場で芝居を見ているとき。下手な役者だと、その役者だけでなく、周囲の小道具や他の観客なども意識に入る。しかし、存在感のある役者が出てくると私の意識の状態は一挙に変わる。私の意識は、その役者の一挙手一挙動に囚われ、周りの状況など一切目に入らないだろう。私的な時間さえも伸び縮みさせる。そして劇が終わった後初めて、私の自己意識を含めた知覚風景全体に意識が向く。