2003-09-01から1ヶ月間の記事一覧

  【  ウィトゲンシュタイン『青色本』を読む  】  

2004/2/6〜2/17にかけて、ウィトゲンシュタイン『青色本』を読みました。 『青色本』(ウィトゲンシュタイン全集6所載、大修館書店、大森荘蔵訳、1933〜34)まとめてあるのは、その中で独我論に関連する箇所です。(p86あたりから)本書は心理主義批判が主…

【 言語ゲーム 】

語の定義(用法、文法)は前もって決まっているわけではない。我々が言語を使用するうちに自然とルールは決められていく。それを勘違いし、真なる定義(対象)を発見したいとする誘惑が、哲学的混迷の始まりである。 日常的言語使用 厳密ではない。正確な規…

 【 哲学的困惑は文法表現の混同によって起こる 】

時間の長さとはどのくらいか?」という問いがある。(p66) この、時間そのものを測定することについての哲学的困難は、時間は実際にどうやって測られるのかを思い浮かべる能力が我々に欠けているがために起こったのではない。表現形式の混同が原因で起こる。 …

 【 コメント1-1 】

これまでの議論をベースに独我論批判に入る。その前に、今までのレスを読んで「ウィトゲンシュタインって哲学が嫌いなんだな」と思われる方も多いだろう。そのことについて述べておきたい。 彼が哲学について述べた言葉をもう少し並べてみよう。 「哲学者の…

【 独我論は、文法形式の混同により生じる 】

ウィトゲンシュタインの独我論批判の戦略は、「独我論とは、文法形式の混同により生じる擬似命題である」ということを明らかにすることである。独我論者の言明、 「私は他人の痛みを経験することはできない。ゆえに私の経験こそが唯一本当の経験なのだ」 を…

【 独我論は私的文法である 】 

独我論者の次の主張を考えてみよう。 「私の経験だけが本当の経験である」 そのとき、独我論者の使う語「本当の経験」の意味は、我々の使う文法に則ったものだろうか?独我論者だからといって、彼は私の心情に同情してくれるし、私の心を否定したりはしない…

【 「私」とは誰か 】

語とは、現実の対象が記号化されたものだけでなく、語自体が言語の枠内で現実の対象と関係なく新たに作られる。これは、言語の中にはそれが指示する対象を持たない語が存在することを意味する。しかし我々は、名前にはそれに対応する対象が存在するはずだと…

 【 コメント 2-2 】

客観としての用法 :私(1)=L・W 主観としての用法 :私(2)≠L・W 名前「L・W」とは、世間や他者の間で共有されている私である。L・Wを指示代名詞で言い換えれば「私(1)」である。それは、「彼」「あなた」「それ」といった、ある対象を指示する目的…

 【 コメント 2-1 】

「言語=世界の写像」という臆見と、おそらくウィトのこの議論に影響を受けた大森の一元論の関係を見てみよう。「私はコップを見る」という文を例にとる。この文は、 「私は − 見る − コップを」 と分解される。これを意識に当てはめれば次のようになる。 「…

 【 感覚語法と物理語法の混同から生じる誤謬 】

これまでの議論で問題にしてきたことは、所謂「心の働き」と呼ばれるものを述べる文法(感覚語法)についてである。他者と共有できないがその言明は常に真であるこの文法と、物理的事物・客観的事態について述べる文法(物理語法)との表面的な類似が、多く…

 【 まとめ 】 

哲学的困惑の多くは、感覚語法と物理語法との混同によって生じる。 感覚語法の文とは、私の心象を述べた文であり、それゆえその言明は常に真である。加えて、その言明は他者と共有できない。一方、客観的な事態を述べた物理語法の文は、他者と共有され、固有…