【 感覚語法と物理語法の混同から生じる誤謬 】

これまでの議論で問題にしてきたことは、所謂「心の働き」と呼ばれるものを述べる文法(感覚語法)についてである。
他者と共有できないがその言明は常に真であるこの文法と、物理的事物・客観的事態について述べる文法(物理語法)との表面的な類似が、多くの哲学的困惑を生み出す原因となっていることを明らかにした。(私(1)とは物理語法で語られた私、私(2)とは感覚語法で語られた私である)

最後に、この二つの文法の混同により生じる哲学的困惑を、もう一度考えてみよう。
その混同は、「本物の世界−見えの世界」という世界の二元化にもつながっているのかもしれない。

独我論者の言明を取り上げる。次の二つの文の「これ」を比較してみよう。(p126)
 (「これ」とは、発話主体がみている風景全体とする)

   1. 正常な言明    :「私が見ているのは『これ』だけだ」 :これ(1) =物理語法
   2. 独我論者の言明 :「『これ』が本当に見えているものだ」:これ(2) =感覚語法

「これ(2)」は「これ(1)」と表面上まったく同じ語(「これ」)であるが、その語がベースとする文法はまったく異なっている。「これ(1)」とは、私(1)と同じく、他者と共有された「これ」であり、物理空間の中での位置を与えられる「これ」である。「これ(1)」とは、私からは見えない風景を含めた、世界全体の中の一部である。
一方「これ(2)」は、私(2)が語る「これ」であり、認知間違いのない、それゆえ発話した主体と分離不可能、かつ他者と共有不可能な「これ」である。

独我論者とは感覚語法だけを真の文法とみなし、物理語法は偽の文法であると信じる人である。
独我論者は「これ(2)」を用いて、「『これ』が本当に見えているものだ」という。そしてその言明は感覚語法としてはまったく正しい。しかし独我論者は、自らは感覚語法としての「これ(2)」を用いているのを忘れて、表面上の類似から、物理語法としての「これ(1)」がベースとする物理語法の文法規則を無意識に潜ませる。それは、他者と共有不可能な自らの感覚語法の言明を、公共空間の中に忍び込ませようとすることである。その結果、「『これ』が本当に見えているものだ」という感覚語法として真なる言明から、「それゆえ、他者の見えている風景は幻だ」という独我論的言明が生じる。独我論者の文法においては、他者の見ている風景など「論理上」言及不可能にもかかわらず。

「感覚与件語法を採用したときに我々が落ち込む危険は、感覚与件についての言明のもつ文法と、物理的事物についての外見上同じ形の言明の文法との違いを忘れてしまうことである」 (p125)

我々に与えられる感覚与件とは「見え」のことである。
我々の文法では、二つの物が同じに見える時、「同じである二つの見えが存在する」と言い換えることができる。

   1. これら二つのものは同じに見える
   2. これらの二つのものの見えは同じである  

1の文を2に言い換えることにより、「見えは存在する」という命題を生み、その文型の類似から「りんごが存在する」が世界を描写した文であると同様に、この命題も世界を描写した文だという錯覚を導く。その結果、まるで世界の新しい構成要素を発見したとでもいうように、現実世界に見えの世界が存在すると考える。
一方、我々が見ているものはすべて見えである。つまり、我々の世界とは即ち見えの世界となる。そして、見えの世界が存在するならば、本物の世界も存在するはずだと思い込む。その結果が、本物の世界(物自体界)、見えの世界(現象界)の分離である。(この分離について、ウィトゲンシュタインは言及していない。これに関しては後述する)

「見え」とは感覚語法における語である。本来私的であるはずの「見え」という語を、物理語法における「りんご」と同様に考え、公共空間の中に位置付けようとしたことから、「仮の見え姿−本物の世界」という世界の二分化が起こった。