【 まとめ 】 

哲学的困惑の多くは、感覚語法と物理語法との混同によって生じる。

感覚語法の文とは、私の心象を述べた文であり、それゆえその言明は常に真である。加えて、その言明は他者と共有できない。一方、客観的な事態を述べた物理語法の文は、他者と共有され、固有名で置き換えたり、物理空間に位置付けすることができる。その命題には偽の可能性が常に存在する。

感覚語法と物理語法には、文法上表面的な類似がある。それゆえ、感覚語法の文を物理語法の文と混同し、公共空間の中で妥当させようとする。しかも感覚語法による言明は、当事者にとって常に真であることが、その誘惑に追い討ちをかける。その時、「私の痛みだけが存在する」という感覚語法の文から、「ゆえに、他人の痛みは存在しない」という独我論的言明が生まれる。