【 コメント 2-1 】

「言語=世界の写像」という臆見と、おそらくウィトのこの議論に影響を受けた大森の一元論の関係を見てみよう。
「私はコップを見る」という文を例にとる。この文は、

   「私は − 見る − コップを」

と分解される。これを意識に当てはめれば次のようになる。

   「私は  −  見る  −  コップを」
    エゴ  −  コギト  − コギタートゥム
   (自我)   (意識作用)   (意識対象)

言語は世界を写像したものだと我々は考える。それゆえ、命題「私はコップを見る」が「私」「見る(作用)」「コップ」に分解できるならば、それによって写像された現実世界も、「自我」「意識作用」「意識対象」と分解でき、そのそれぞれに対応する対象が存在すると考えてしまう。そうなれば、意識作用、意識対象から独立した「自我(私)」の存在を想定してしまうことは理解できるだろう。

しかし、大森はこの分離に反対する。
「(コップを)見る」とは常に私が見るのであり、「私」と「(私の)見る作用」を分離することは不可能である。「見る作用」から分離した純粋な「私」などありえない。「コップが見えた」即ちそれが「私」である。また、「見られた対象(コップ)」から分離した「見る作用」などありはしない。「コップが見えた」それが即ち「見る作用」でもある。なにも見えていないのに、「見る作用」が存在するとはいえない。

「物質」から「延長」や「色」そのものを取り出すことができないように、「意識対象」や「見る作用」から独立した私など存在しないし、「私」や「見る作用」から独立した「意識対象」の存在もありえない。これが、「私−意識作用ー意識対象(客観的事物)」の一元化を図る、彼の一元論を支える直観である。