【 コメント 2-2 】

   客観としての用法 :私(1)=L・W
   主観としての用法 :私(2)≠L・W 

名前「L・W」とは、世間や他者の間で共有されている私である。L・Wを指示代名詞で言い換えれば「私(1)」である。それは、「彼」「あなた」「それ」といった、ある対象を指示する目的で使用される代名詞と同じカテゴリーに属する。しかし、「私(2)」とは社会や他者と共有されるものではない。社会の様々な関係性の内の一つではなく、他と関係性を持たない私独自の語である。よって、L・Wでもない。たとえ、私(2)が事実L・Wであったとしても。

「私の言うことを聞く人がそれを理解できてはならないことなのである。他人には『私が本当に意味すること』が わかってはならぬことが肝心だ」 (p117)

私(2)とは、ここで言われる「他人には『私が本当に意味すること』がわかってはならぬ」私であろう。
私が「私(2)」を用いて私を語るとき、それが相手に意味が通じてはならない。通じた途端、私(2)は私(1)へと変貌する。(この辺りが難しい)

ウィトゲンシュタインは、徹底的に独我論に反論するが、「実は彼自身、独我論者ではないか?」とこの辺りの議論から感じる。社会や他者との間で共有される私を認め、私(2)が指示する対象などないと宣言していながらも、私(2)にこだわっているように思えるからだ。