【 「私」とは誰か 】

語とは、現実の対象が記号化されたものだけでなく、語自体が言語の枠内で現実の対象と関係なく新たに作られる。これは、言語の中にはそれが指示する対象を持たない語が存在することを意味する。しかし我々は、名前にはそれに対応する対象が存在するはずだと考えがちである。この錯覚が、「真なる私」「真なる自我」といった茫洋としたつかみ所のない対象を生み出す原因となる。

「ある名詞が指示すべき現実的対象が見当たらないとき、心や自我といった不可思議な心的対象を創り出す」 (p91)

「真の私は私の体の中に住んでいるというこの考えは、『私』という語の得意な文法ならびに、この文法が引き起こしがちな誤解に結びついている」 (p120)

日常において使用される「私」という語を分析してみよう。

「私」という語には二つの異なった用法が存在する。

  1. 客観としての用法 (私(1)):「私の腕は折れている」 「私は6インチ伸びた」 「私は額にこぶがある」
  2. 主観としての用法 (私(2)):「私はコップを見る」 「私は私の腕を上げようとする」 「私は雨がくると思った」

「私(1)」は、客観的な事態を描写する用法であり、そこでは私を含めたある特定の人間の認知が含まれ、それ故その言明には誤りの可能性が存在する。一方「私(2)」は、自らの心象を述べる用法である。そこに認知の誤りは存在しない。
たとえば、事故で自分の腕に痛みを感じ、腕を見ると腕が折れていたとしよう。この時、「私の腕が折れていると思っていたが、折れていたのは実は隣の人の腕であった」ということはありうる。しかし、その時の痛みに対して、「痛みを感じているのは君だってことは確かか?」と聞くのは馬鹿げている。私の痛みを誰かの痛みと勘違いすることはありえない。私の痛みとは常に私の痛みである。(前者の時用いられる私が「私(1)」であり、後者の時のそれが「私(2)」である)

これは、2の文は1とは異なり、特定の人間についての言明ではないことを意味する。
「私は腕が痛む」の「私(=私(2))」と、「私の腕が折れている」で使用される「私(=私(1))」とは異なった構造をもつ。「(腕が)痛い」とは、多様に存在する中の、ある特定の対象の事態についての言明ではなく、「顔をしかめる」「うめく」といった、「振る舞い」の一種とみなされるべきである。

次の二つの文の構造を見てみよう。

   3-1. 「私の腕が折れている」
   3-2. 「私は腕が痛い」

「私の腕が折れている」の文は、「私(の腕)−折れている」という二項関係で成り立っている。
私が「腕が折れている」と言うだけでは、誰のことを述べているのかわからない。必ず、「私の」「彼の」という指示詞が必要となる。つまりここで使われる「私」には、あるもの(腕を折っている私)を指示する働きがある。
しかし、「(私の)腕が痛い」の文は違う。私が「腕が痛い」という時、それを痛がっているのは誰でもない。この「私」である。「私が痛みを感じる」とは即ち「(私が)痛い」であり、「私」という指示詞など必要ない。「腕が痛い」即ちそれが「私」である。この文で使用される「私」(=私(2))に指示対象はない。

こう言われて、「いや。『腕が痛い』と感じた私とは、この腕を持つ私のことを指示しているのだ」と腕をポンポン叩きながら反論するかもしれない。しかし、この人は、「私(2)」の意味で「腕が痛い」と言っていたのを、今説明する段になってそれを「私(1)」にすり替えたのだ。
次のように考えればわかりやすいかもしれない。

ボールを受け損なって腕にあたる。そのとき私が「痛ってー!」と叫ぶ。その「痛ってー!」とは、「”私が”痛みを感じたんだよ。”私が”だよ。」という意味は”まったく”ない。「ひどく”痛い”んだよ。”痛い”んだよ」という感情を表明しただけである。それを、改めて「誰が痛みを感じたのですか?」と私に向かって問う奇特な人がいたら、「私(1」)の私を使用して、「痛みを感じたのは、”私”に決まってるじゃないですか」と腕をめくってボールの痕を見せようとする。
このように我々は、「私」の二つの用法を無意識に使い分けている。

我々は、「私は〜である」という文型が類似しているため、「私」の二つの用法を混同し、あたかも「私(1)」と同様、「私(2)」が指示する対象が存在するはずだと考えてしまう。
その時、痛みを感じる「私」とは、客観的な身体としての私を指すのではないと感じ、「その私とは、身体内に座をもつがそれ自体は肉体のない何かを指すのだ」という幻想が生じる。これが、「我思う。ゆえに我あり」の「我」、つまり真の私、真の自我という幻を生み出す起源である。

私ルードヴィッヒ・ウィトゲンシュタイン(L・W)が「私の腕が折れている」と述べたとしよう。
この時の「私」(=私(1))とはL・Wを指す。しかし私が、「痛い!」と叫んだ時の「私」(=私(2))は違う。たとえ私がL・Wだとしても、「私(2)」とはL・Wと同じことを意味しない。これは、私(2)とL・W(=私(1))がまったく異なった意味を持つという意味でなく、この二つの語は我々の言語において異なった働きをする道具というだけである。

「私の腕が折れている」の時の「私」とは、「彼の腕が折れている」での「彼」と同じある特定の人物を指示する指示代名詞だが、「腕が痛い」とうめく「私」とは、ある特定の人物を指示する指示代名詞ではない。命題「私は痛い」と「彼は痛い」の違いは、「L・Wは痛い」と「スミスは痛い」の違いではない。むしろ、「うめくこと」と「誰かがうめいている」との違いに対応する」 (p123)