【 独我論は私的文法である 】 

独我論者の次の主張を考えてみよう。

  「私の経験だけが本当の経験である」

そのとき、独我論者の使う語「本当の経験」の意味は、我々の使う文法に則ったものだろうか?
独我論者だからといって、彼は私の心情に同情してくれるし、私の心を否定したりはしない。彼らの主張(「私の心だけが存在する」)と行動(「私を心あるものとして扱う」)に矛盾があると思わないだろうか? しかし、彼らはその矛盾を感じないはずである。なぜなら、彼らは我々と異なった文法規則を用いているからだ。彼らの文法形式では、彼の主張と行動は一致している。彼が使う「本当の経験」と私が使う「本当の経験」は、異なった文法規則に則って使用されている故、そしてそれ”だけ”が原因で、食い違いが生じる。

独我論者の「私だけが本当の痛みを感じる」という言明は、事実についての新しい意見を述べているわけではない。彼と私との間で述べられた事実問題について食い違いがあるわけではない。彼は新しい真理を告げたのではなく、新しい文法形式を提案したのである。(いわば、ワンワン吠える生き物を、私は「犬」といい、ある人は「dog」というのと同じである)

独我論者の次の言明で使われる「見る」という語の意味を考えてみよう。

  「私が見ているものだけが本当の世界である」

この「見る」という語も、通常の文法形式のそれとは異なって使用されている。
彼にとってこの語が意味する範囲は極端に狭い。つまり、独我論者にとって「見る」とは、「私」という一人称にだけ当てはまる語なのである。つまり、彼にとって「見る」という語は、実際に知覚し、あるイメージが心に浮かんだ時だけに用いられる言葉である。となると、「私」から見て、「私」以外の人間が「見る」ことは論理的に不可能である。「他者」の定義からすれば、当然である。

彼、独我論者が用いる文法は、「私」だけに当てはまる文法である。
そして我々は、彼が彼特有の文法を選択したことについて否定することはできない。客観的に
正しい文法というのは存在しないのだから。しかし、彼が「私の文法だけが、真に世界を表現している」と主張するならば、「否」と言わねばならない。

独我論者の文法とは、ある人が常にであれ一時的にであれ、例外的な位置を占める表示法である。その人が、それを使うことに異議はない。しかし、その表示法の選択を正当化できると考えることは誤りである」(p119)

形而上学者(独我論者)のある主張は、実は通常の文法に対する不満の表現なのである」(p105)

独我論者の文法とは、他人に伝わってはならない私的文法である。
独我論者Bの言明「私の痛みだけが本当の痛みである」で言われている「痛み」とは、Bだけが
所有する感覚のはずである。しかしその言明を、「それは私にも当てはまるね。つまり、私の痛みこそが本物で君(B)の痛みは幻なんだよ」と独我論の文法規則を私も共有しようとすれば、Bだけにしか存在しないはずの痛みが私にも存在することになる。これにより独我論は矛盾に陥る。

独我論的主張とは、それをいう当人には何か意味を持つと思われているが、他人には何も伝達できないのが本質である。その理由は、彼が用いる文法形式は他者と共有できない私的文法だからである。独我論者の文法は、それを用いる人を例外的、唯一性をもって扱う形式をもつ。よって、独我論文法について次のことが言える。

「私(独我論者)の言うことを聞く人がそれを理解できてはならないことなのである。他人には『私が本当に意味すること』がわかってはならぬことが肝心だ」p117

もしかしたら彼は、「この独我論文法を用いていいのは私だけである。なぜなら君らは存在しないから」と、文法の独占を宣言するかもしれない。独我論とは、カードにおけるジョーカーのようなものだ。そして、独我論者とは、そのジョーカーを独り占めしたがる子供のようなものである。

言語とはそもそも、思想を伝達するための道具である。それに反して独我論者が用いる言語は、他人に伝わることを拒否する言語である。そのような言語が我々が共有する標準形式とはなりえない。それゆえ、独我論者の言語が公共的に正当性を持つことはない。独我論者の主張は「公共的には」間違っている。

(あくまで「公共的には」である。独我論が反駁されるのは、「公共的」な場においてである。独我論そのものが否定されるわけではない。たとえば、世界に私しか存在しないとする。そのとき、独我論文法は十分意味を持つ文法ではなかろうか? 繰り返せば、客観的に正しい文法など存在しない)

「どの文法形式を選択するのも自由だが、選択されたそれが唯一正しいということはできない。」

ここまでくれば、「無は存在するのか?」と我々が問いたくなる理由もお分かりだろう。

  1. コップが存在する
  2. 無が存在する

この二つの文は、「xは存在する」と、表面上の文法は類似している。1が意味ある命題なら、2も意味あるそれだろう考えたくなる。にもかかわらず、「x=コップ」と「x=無」の文では、まったく異なった文構造をもつ。しかもその違いは、論理上、経験上と二つにまたがっている。

一つは、論理上における主語と述語との関係である。
1は、主語(コップ)と述語(存在する)が正当な関係を持つ文である。しかし(通常の文法において)2は、主語(無)と述語(存在する)のそれぞれが持つ意味が互いに相反する文である。つまり、論理的不可能性を述べた文である。いわば、「p∨¬p」を満足するpを探すようなものである。
もう一つは、経験上の相違である。
我々はある名辞が存在する時には必ず、それに対応する対象、特に現実的対象が存在するものだと思っている。名詞にはこの誘惑が顕著である。だが、「しかし」や「です」に対象はあるのだろうか? なぜ名詞にはそれに対応する現実的対象があると考えるのだろうか?

その理由は、言語とは現実の世界を記号として対応させたもの、もしくは心象の記号化と考えているからである。それゆえ、ある名詞(たとえば「無」)が存在するとき、それに対応する現実的事物(数のような客観的事物含む)の存在を無意識に想定する。しかしある種の語は、現実世界との対応によってによって創られたのではなく、論理それ自身によって生まれてきたものである。それらは当然、論理の世界のうちでしか存在しない。そして、この場合の名辞は、現実的対象との対応によって生まれた名辞とは異なり、その論理構造の内でのみ真偽が問える。
「無」の存在の真偽が問えるのは、経験世界でなく論理世界である。あとは、無にどのような意味を付与するかで、その真偽は変わる。

現実世界を描写するために創られた言語(論理)が、論理の必然性から新たな概念を生み出し、それは現実世界の対象とつながっていると錯覚する。
この錯覚は、「真なる私」「真なる自我」といった茫洋としたつかみ所のない対象を生み出す。

「ある名詞が指示すべき現実的対象が見当たらないとき、心や自我といった不可思議な心的対象を創り出す」(p91)