【 独我論は、文法形式の混同により生じる 】

ウィトゲンシュタイン独我論批判の戦略は、「独我論とは、文法形式の混同により生じる擬似命題である」ということを明らかにすることである。独我論者の言明、

「私は他人の痛みを経験することはできない。ゆえに私の経験こそが唯一本当の経験なのだ」

を考える上で、次の二つの文を比較してみよう。(p94)

  1. Aさんの金歯を見ることができない
  2. Aさんの歯痛を感じることはできない 

1は日常的によく使われる形態の文であり、それを述べることに意味のある文である。
それは、「Aさんの金歯は今は見えないが、口を開けてもらえばそれを見ることができる」という経験的命題でもある。
2の文も、1と同様の文構造を持っている様にみえる。それゆえ、こちらも意味のある文に思える。
しかし、2は1とはまったく異なった文構造に支配された文であり、無意味な命題である。その上、独我論への誘惑を持つ形而上学的命題となりうる。


我々が通常用いる文法において、他者と私は、身体的な区分によって定義されたのではない。
私とAさんの身体が分かれているから、彼と私は別人であると定義したのではない。そうではなく、精神的な区分によっている。つまり、知覚、感情といった心の現象が現れるあるものを「私」、それを経験できないあるものを「他者」と定義したのだ。

仮に、Bさんの身体が傷つけられると私に痛みが走るとしよう。
その時、その痛みは彼の痛みなのか? それとも私の痛みなのか?通常の文法形式に則れば、その痛みは私の痛みであるといえる。一方、別の文法形式──身体的な区分により「私-他者」を区分する──においては、この痛みは彼の痛みである。

「私に感じられる痛みとは、常に私の痛みである」

これは経験的な事実を述べた文ではなく、論理的事実を述べた文なのだ。
この文は、(一般に用いられる)文法形式から導かれる「論理的」真理なのである。

「私が彼の痛みを感じる」とは(比喩的な場合を除いて)、論理的に無意味な命題である。(P102)

(繰り返すが、身体的区分により「私−他者」を区分する文法形式では、逆になることに注意)


つまり、私は「経験的に」Aさんの歯痛を感じることができないのではなく、歯痛を感じることができないあるものを「他者」と前もって定義しているゆえ、私はAさんの歯痛を「論理的に」感じることができないのだ。「Aさんの歯痛を感じることはできない」という言明は経験的不可能性ではなく、論理的不可能性について述べた文である。にもかかわらず、そこから「それゆえ、Aさんの歯痛は存在しない」という形而上学的命題を導くのは誤りである。

「痛みとは常に私の痛みである」という文は論理的不可能性の構造をベースに持つ。しかし、それを経験的な文であると勘違いし、それゆえ「他人の痛みは存在しない」という形而上学的命題を引き出す誘惑を我々は常に持つ。その誘惑に負けたとき、独我論的主張が生まれる。

「我々は、ある文法形式を使用すると決めておきながら、他方、その形式に反する文法形式を使うよう強く誘惑される。これが、形而上学的命題が生じる原因である]

まとめると次のようになる。

  1. Aさんの金歯を見ることができない:経験的不可能性について述べた文。 経験的に有意味な文。
  2. Aさんの歯痛を感じることはできない:論理的不可能性について述べた文。 経験的に無意味な文

このような表面上類似した構造をもつようにみえる、しかし実際にはまったく異なった文法を持つ文同士を混同することが、形而上学的困惑を生む。(「哲学が行う唯一のことは、この混同を指摘してあげることだ」)。物理的不可能性と論理的不可能性の二つの性質を持つ「〜できない」という語が、表層上の類似に誤魔化されて後者が前者と混同される。