【 コメント1-1 】

これまでの議論をベースに独我論批判に入る。
その前に、今までのレスを読んで「ウィトゲンシュタインって哲学が嫌いなんだな」と思われる方も多いだろう。そのことについて述べておきたい。

彼が哲学について述べた言葉をもう少し並べてみよう。

「哲学者の目の前にはいつも科学の方法がぶら下がっていて、問題を科学と同じやり方で問いかつ答えようとする誘惑に抗し難い。この傾向こそ形而上学の真の源であり、哲学者をまったき闇へと導くのである」(p47)

形而上学者(独我論者)のある主張は、実は通常の文法に対する不満の表現なのである」(p105)

「何か一つの発見(独我論)をしたように思われてくる。・・・だが、こうしたものは、我々がただ物事を哲学化するときに起こることなのだ。常識の立脚地に戻るや否やこの包括的な不確実性は消失する。」(p88)

「哲学者の攻撃から常識を守る道は、彼らの困惑を解決してやることしかない。つまり、常識を攻撃したい誘惑から彼らを癒してやることであって、常識の見解を繰り返すことではない。」(p108)

これを読むと、彼は哲学的思考を攻撃する、いわゆる科学的・常識的思考の持ち主のように思える。その上、彼は他人に「哲学は不健康な行為である」と自覚することを求める。その一方で、自らは哲学に取り付かれていることを告白する。このギャップを理解しないと、彼の生の叫びはかき消され、彼の哲学は、表層の論理的思考だけ掬い取られるだろう。(論考の彼が論理実証主義者と勘違いされたように)。彼の叫びを捉えた時、『青色本』はまったく異なった相貌で立ち現れてくる。

青色本』でウィトは、「私が考えていること(独我論)は、ある理由により誤って導かれた幻想に過ぎない。私の精神が病んでいるわけではない」と自分自身に言い聞かせているように僕には思える。自然にしていると沈みがちな人間が、浮上するために必死に哲学にすがる様を思い出す。彼にとって哲学するとは、自らの不安的な精神の癒しのためだったのか? (その意味で、『青色本』と『回想のウィトゲンシュタイン』を併読するのが、ウィト入門には必須なのかもしれない)

大森も、「哲学をするには病気でありさえすればいい」という。
永井のいうように、普段から水面で生活している人間が知的好奇心で哲学を求める様と、自然にしていると沈みがちな人間が浮上しようと必死に哲学にすがる様は、まったく異なった行為なのだろう。

彼らの言葉を意図的に強調することは、哲学に対する偏見と閉鎖化を促しているのかもしれない。しかし「哲学とは何か?」を考えるとき、この三人の哲学者の言葉を深く考えざるを得ない。少なくとも僕には。