【 哲学的困惑は文法表現の混同によって起こる 】

時間の長さとはどのくらいか?」という問いがある。(p66)

この、時間そのものを測定することについての哲学的困難は、時間は実際にどうやって測られるのかを思い浮かべる能力が我々に欠けているがために起こったのではない。表現形式の混同が原因で起こる。 
「時間を測定する」という命題で我々が思い浮かべているのは、空間的な長さである。鉛筆の長さを物差しで測るように。我々は「測る」という語を、空間に属するカテゴリーに収めた。「測る」という語は、空間の文法形式に属する。しかし、時間とは、空間的事物ではない。それを忘れて、空間を記述する文法を、空間カテゴリーに属さない時間に適用しようとしたことが、この問いの困惑の原因である。つまり、この問いは論理的に無意味な命題である。

時間そのものを測るとは、空間的に測るのではなく、時間的に測るのだといわれるかもしれない。この時「(時間を)測る」という語は、時間というカテゴリーの中に含まれている要素である。そのカテゴリーの中の要素で、カテゴリー自体を測ることはできない。いわば、物の長さを測るためのものさし自体の長さを測ろうとするようなものだ。そのためには、別のものさしを使わねばならない。そして、時間には、それに相当するメタ時間は存在しない。

「手をつかってはいけない」というルールであるサッカーをやりながらも、試合中に、「なんで手をつかってはいけないのだろう」と困惑するのが哲学者。その困惑から、「では、手を使ってみよう」と新たなルールを用いて更なる混乱を巻き起こすのが哲学者。彼の困惑を救う方法はただ一つ。彼が気付いていないルールを教えてあげることである。

「哲学的に困惑している人は、ある語が使われる仕方の中に一つの法則を見つけ、その法則をすべての一貫して当てはめようとして、矛盾する結果に終わる事例にぶつかる」(p60)

同様の困惑は独我論についても当てはまる。