【 言語ゲーム 】

語の定義(用法、文法)は前もって決まっているわけではない。我々が言語を使用するうちに自然とルールは決められていく。それを勘違いし、真なる定義(対象)を発見したいとする誘惑が、哲学的混迷の始まりである。

日常的言語使用
厳密ではない。正確な規則に従わない。定義は決まっていない。(p58)
哲学における言語使用
厳密な規則に従う用法の如くみなす

「我々は、自分の表現の仕方で引き起こされた当惑に面しているのである」(p92)

「一般名辞の意味を明確にするためには、そのすべての適用を通じて共通する要素を見つけねばならぬ、という考え方が哲学にかせをはめてきた」(p47)

「哲学的困惑自体がいつもまさに言語に対するこの態度から湧き出てくる」(p58)

「哲学とは、表現の形が我々に及ぼす幻惑に対する闘いである。・・・言葉は、我々がそれに与えた意味を持つ。・・・多くの語には厳密な意味がない。(それなのに「〜とは何か?」と定義不可能な問いを永遠に繰り返す)」(p61)

次の例を考えてみよう。
「『私は手に、地下3フィートに水があるのを感じる』という命題は間違っているか?」(p34)

通常の文法規則では、3フィートという長さは、物差しなどを使って目で測るものであり、「3フィートの長さを手で感じる」というのはいかにも奇異に思える。しかし、その3フィートの長さを感じることのできる超能力者の「私は地面に手を当てて水を思い浮かべれば、頭の中に3という数字が現れるのです」という説明を聞き、それが常に事実と一致していることが確認できれば、彼の言葉の使い方は誤っていないと気づく。そのとき、彼の「手の感覚で距離を測る」という語の使用は、我々が通常用いる言語の文法には即していないが、彼の文法の規則にはマッチしていることを認めざるを得ない。彼の文法では、距離は感じるものなのだ。彼の言明は、客観的に誤っているのではなく、たまたま我々の言語ゲームからは締め出されているだけで、彼のような文法を用いる超能力者が増えれば、彼の文法が公共的に認められた一つの文法となろう。その時、彼の言明は、誰にでも通用する論理的に正しい文となる。
このように語(文法)は、それが使用される過程において、その意味が決まってくる。

「記号(言語)の生命であるものを名指せといわれれば、それは記号の使用であるというべきであろう」(p27)

   ex1) 無意識的歯痛 (p54)
   ex2) 無意識的思考 (p106)
我々はこれらの語にも違和感を感じる。その理由は、「感覚や思考は意識的なものである」という我々の文法形式が存在するからである。この語は、論理的に矛盾しているので無意味な言明といえる。それならばとルールを変更し、「感覚や思考も無意識の領域が存在する」と感覚や思考の意味を拡張すれば、これらの語は有意味な語となる。この例でも明らかなように、語それ単独で、その真偽を判定することはできない。その語が用いられている文法に照らせ合わせて初めて、語や文はその真偽が問える。

「無はあるのか?」という問いも、この手の混同によって生じる問いである。
通常の文法形式において「無はあるのか?」という命題は、「無」という語の定義を考えれば、無意味な問いである。しかし、「無」という語に新たな意味を付与して、新しい文法形式に従って考察すれば、有意味な問いとなる可能性がある。(ハイデガーの無の議論はこれか?)
文法形式は文の意味に先行し、文の意味は語の意味に先行する。

このような語の意味、文法形式の曖昧性は、多くの哲学的困惑を創り出す原因となる。それは一般に「〜とは何か?」という形であらわれる。
「時間とは何か?」という哲学問題を考えてみよう。(p58)「〜とは何か?」という問いは、「〜」の定義を答えることである。つまりこの問いは、時間の定義を問うている。しかし、「時間」に決められた定義など存在しない。定義は我々が付与するのだ。
例えば、「時間とは物質の変化である」と答える。しかし、それで時間を完全に表現できたわけでない。それで更に「時間とは何か?」と問われる。それは、ゴールの見えないレースであり、恐ろしいことに、そのゴールは刻々と変化していくのだ! 哲学的困惑はこうして続いていく。