【 哲学とは何か 】  

ヴィトゲンシュタインは哲学をハエ取器にかかったハエにたとえたが、
もしそうだとすれば哲学の行路の軌跡はそのようである以外にはあるまい。
さらに、ハエが脱出し哲学が完結するといった事態を想像できる哲学者は
いるのだろうか。完結し終了した哲学史なるものを考えることはできるのだろうか。

哲学の作業を音楽になぞらえるならば、それは作曲というよりは演奏に近い
ように、私には思える。それは変わることのない主題を人それぞれが演奏する。
人間の生き方がさまざまでありながらも、それは同一の主題、利欲や野心や
愛憎の、情熱や心苦や倦怠の、弾奏であり歌であるのと同様に、哲学もまた
いくつかの変わらぬ主題の演奏であると思える。そしてこのことには理由がある。

哲学が常に面するのはこの世界と人間である。それは科学と異らない。
だが哲学は望遠鏡や電子顕微鏡で世界と人間を探索するのではなく、
世界と人間のあるがままのあり方を「みてとる」ことを求める。遠い星や
地球の内部、また細胞の極微の代謝機構が科学者にかくされている、
という意味ではこの世界と人間は哲学にとって何らかくされていない。
世界と人間はあからさまに、そのすべてをさらけだしてそこに在るのである。
科学者にその細部や遠方がかくされているというその在り方で、あからさまに
在るのである。だが、そのあからさまにそこに投げ出されてあるものを
どう眺めるか、どうみてとるか、そしてそれをどう言葉に定着するか、
それが哲学の作業である。

哲学は科学のように新事実を発見したり新理論を発想しはしない。
哲学に新事実というものがあるとすれば、それはかくし絵の中のかくされた
姿をみてとること以外ではない。
そのかくされた姿とはすでにそこにあからさまに在り、すでに見られていたものを
「みてとる」こと、それが哲学なのである。科学が news に向うとすれば、哲学は
new look に向うのである。

だからこそ、哲学は専門ではありえない。
物理学や経済学が専門であるようには哲学は専門ではなく、哲学に素人と
専門家との区別はない。誰であろうと生きているかぎり、世界と人間をある見方で
「みてとって」いるからである。ただ普通以上にその「みてとる」ことにかまけ、
「みてとる」ことを明確に意識的に遂行しようとするとき、それが哲学専攻と
言われているにすぎない。

哲学は古来変わらぬ主題群の果てることのない演奏だと私には思えるのである。
そこでは一人の演奏の終わったところから次の人が引き継いで演奏を続けると
言うことはできない。誰でもみずから始めから演奏を始めなければならない。
それがいかに拙いものであるとしてもである。
そしてまた、音楽の演奏がそうであるように、繰り返し巻き返し演奏をやり直さねば
ならないのである。そこには終了といったものもなく完結というものもない。
つねに未完であり、絶えざるやり直しがあるだけである。

哲学とは本来、途上のものであり、終わりのない過程なのである。(04/2/20)

                    (大森荘蔵『言語・知覚・世界』序)