【 哲学は関係性を探求する学問ではない 】  

我々は日常において、対象そのものではなく、私を含めた対象間の
関係性の中に投げ込まれている。
この世で生きるとは、社会の関係性を読み取って、張り巡らされた
その関係性の網の目の中に、自分を当てはめることである。
うまく入り込むためには、その関係性を解明する必要が生ずる。

全ての学問は、世界の関係性を解明することを目的としている。
物理学は物質の法則性を、経済学は経済活動に関する法則を、
思想は人間と社会の関係性を。

しかし、哲学だけは違う。
哲学は関係性ではなく、関係性を消去した後に残る世界そのものを
解明しようとする。*1それは、日常の関係性の中で生きる我々には、
意味のない馬鹿げた行為なのかもしれない。*2

しかし、もし私があと一日で死ぬならどうだろう?
その時、私の意識が向くのは、世の中の関係性だろうか?
それとも、この世界や私の存在だろうか?*3 *4 *5
(04/2/21)

*1:だからこそ大森の言うように、哲学は、「すでにそこにあからさまに在り、すでに見られていた(が気づかれなかった)ものを『みてとる』こと」なのである。

*2:パスカル「慰戯」id:Paul:20010106

*3:ハイデガーは、人間の在り方を、「本来的自己」「日常的自己」と分けた。日常的自己とは、ここでいう社会の関係性の中に投げ込まれ、その関係性に関心を持ちながら生きている瞬間である。本来的自己とは、そのような関係性の網の目から離脱し、いわば「(関係性としての)世界が遠ざかっていく」状態である。残されるのは、丸裸にされた世界の存在そのものである。その時、世界が「ある」、私が「いる」ことの不思議さが突如現れてくる。誰にでもそのような経験はあるのではないだろうか?

*4:現象学は、関係性を消去した世界のありのままを捉える方法論である。「我々は徹頭徹尾世界と関係していればこそ、我々がこのことに気付く唯一の方法は、このように世界と関係する運動を中止することであり、あるいはこの運動との我々の共犯関係を拒否すること(フッサールがしばしば語っているように、この運動に参与しないでそれを眺めること)であり、あるいはまた、この運動を作用の外に置くことである。それは常識や自然的態度の持っている諸確信を放棄することでなくて──それどころか逆にこれらの確信こそ哲学の恒常的なテーマなのだ──むしろ、これらの確信がまさにあらゆる思惟の前提として<自明なものとなっており>、それと気付かれないで通用しているからこそそうするのであり、したがって、それらを喚起しそれとして出現させるためには、我々はそれらを一時差し控えなければならないからこそそうするのである」(メルロ=ポンティ『知覚の現象学』p12)

*5:私の存在の消滅を意識することは、私や世界そのものの存在を気付かせてくれる。しかしそうであっても、我々が生きる場所は世界の関係の中でしかありえない。たとえ哲学が世界の存在を露わにしても、私の日常は変わらないだろう。たとえ死の直前でも。