5. 略画の密画化、その始まり


  「洋の東西を問わず、古代中世の宇宙地図の中で天空部分、
   すなわち、日月星辰はもっとも密画化が進んだものであった。
   それに較べると、地上部分はおぼつかない略画にとどまっていた。
   大地の形状ですらそれが球形として描かれるのには長い時間を要した。
   日本では地「球」の概念に接したのは江戸期に入ってからであった」




【 人体地図 】

一方、人体という小宇宙の地図の略画化はさらにゆっくりと進んでいった。
人体地図*1は、全宇宙地図の微々たる領域に過ぎないが、人間の宇宙了解にとって決定的な意味を持つ。そこに描かれる生命、心が、全宇宙の描き方に強い影響を与える。つまり、人間観は世界観の核心なのである。

人間観次第で、天地は活き活きと人間と交流し、あるいは人間にとって余所余所しい死物世界となる。そして自然が死物となれば、自然の一部である人体も死物の集合体、組み合わせ機械となり、心はその上を漂白することになる。



【 西洋古代中世の人体地図 】

生命の特性において挙げられるのは、「温かい(熱)」「動く(自発的運動)」「食べる(代謝)」「感覚」「思考」などであろう。その中でもまず、「温かい」、つまり熱を持つことが必要である。
血液循環の発見者ハーベイ*2は言う。

「死は熱の欠乏に基づく腐敗であり、かつ全ての動物は温かく、死せるものは冷い」

「(生きるためには)どこかに熱の発生場所、熱源があって、・・・そこから生体各部へ熱と生命とが流れ出し・・・、そしてこの活動にすべての活動が依存している」

この熱(生命)の発生源は、洋の東西を問わず心臓であった。心臓を中心に循環する血液に伴って、熱と生命は全身に廻るのである。

西洋医学の開祖といわれるヒポクラテス*3は、人間の生命の基礎として、血液、粘液、胆汁、墨胆汁の四種の液を考え、それらの四液の混合を調整するものが心臓の熱であった。その混合が適正であれば人は健康で、バランスが崩れれば病気になるのである。



【 生命の原理 】

以後二千年近くにわたって続いた、この心臓中心の考えの権威はアリストテレスであった。
心臓は彼にとって「生命の原理」であった。

「(心臓は)あらゆる部分の中で最初に形成され、・・・さらに快不快の印象および一般のあらゆる感動はここから起こる・・・感覚の起源でなければならない」

「心臓こそは・・・生命と熱とを保持させる中心であって、そこから動脈を伝わって、新鮮で、温かい、生気に満ちた血液が伝達される。この暖の根源は・・必然的に心臓のうちにあらねばならぬ。霊魂がこの部分・・・すなわち心臓において、いわば火を加えられたような状態にあるからである」

さらにアリストテレスにとって心臓は運動中枢でもあった。

「動物におけるあらゆる運動は、(心臓内の)小筋、腱といった神経によるものである」

こうしてアリストテレスにとって心臓は、「熱と生命の源」「感情と感覚の生じる場所」、そして「運動中枢」ですらあった。*4
しかし、一つの局所的器官である心臓を生命の熱の源泉、その中央配給所とみるこの考えの中に、肉体の死物観、機械観が首をもたげている。なぜならそれは、生命の素を心臓という一器官に集中することであり、心臓以外の身体の部分の命は、いわば心臓に吸い上げられてしまうことだからである。*5



【 動物機械 】

動物の体は植物と違って、血管系や神経系の中央集権的構造をもつことより、「機械的死物身体」とそれを動かす動力である「生命」の分離が起こる。(植物にはその構造上起こらない)。この事実に、宗教的な「霊肉分離」が加わると、デカルトの「動物機械」、ラ・メトリの「人間機械」は必然的に導かれる。

しかし、このデカルトの時代でも、動物機械的な人体地図は略画的なものであり、消化、遺伝、発生という分子レベルの生物の基本機能は空白のままだった。ましてや、それ以前では人体図は荒い略画的なものであって、それに反比例して、死物身体と生命の分離度は低かった。生命はいまだ身体全身を駆け巡っていたのである。



【 プネウマ 】

その駆け巡る生命は、「生命プネウマ」や「霊魂プネウマ」と呼ばれた。
プネウマとは「精気」「生きた気体上物質」である。「生きた物質」とは、現在では意味不明の概念であるが、それが有意味かつ自然であることが略画的世界観の特徴である。

紀元前6世紀のアナクシメネスはこのプネウマが全宇宙の根源物質であり、生命の原理だと考え、エラシストラトス*6は鼻から吸い込まれた空気が心臓で生命プネウマに精製され、全身に配給され生命機能を司り、さらにその一部は脳に至りそこで霊魂プネウマとなりそれが感覚と運動を司ると考えた。

「物体そのものは霊魂でなく、・・・霊魂は・・・生命を有する自然的物体の形相」とし、物質的プネウマを認めなかったアリストテレスは例外であった。

ガノレスは、肺から取り込まれた生命プネウマは血液と混合して全身に行き渡るとした。さらに左心室からの生命プネウマの一部はのうを通過する間に純化され、鼻から脳に達するとされた空気と反応して霊魂プネウマとなる。この霊魂プネウマが神経系を流れて全身に至って感覚し、運動を起こす。



【 プネウマと霊魂原子 】

このプネウマは原子論者たちの霊魂原子とよく似ている。違いは、霊魂原子が恒常的に生体の中にあるのに対し、プネウマは呼吸によって
絶えず補給される点だけである。プネウマ、特に生命プネウマの考え方は現代の「酸素」の摸像になり、現代の呼吸間との類似性を持つ。
しかし、この時代の略画性では、密画的な呼吸機構や循環機構の描写は不可能であった。



【 ハーベイとプネウマ説 】

血液循環の発見者であるハーベイは、ガノレスの稚拙な略画的血液機構を、「循環」という概念を用いて、より密画的に描いた。彼によって、全身を駆け巡る生命の源であるプネウマの役割は、血液が担うことになる。

「血液と生気とは一つの液体を形成し全身を循環する。身体各部でその役目を果たした血液は冷たく生気を失っているが、それが心臓に還流して熱を得、再び生気を養って全身へと配分される」

では心臓の熱自身は何によって維持されるのか。
それは心臓の収縮運動に由来する。その運動自体は何によって維持されるのかは、彼の略画生では解明できないことであった。



【 略画から密画へ 】

しかし、科学史家が指摘するハーベイの重要性は、その意識的な定量的数量的考察である。
そしてこれこそが、これまで私(大森)が述べてきた、略画から密画への意識的な踏み出しである。ここで大切なことは、事の核心が事態の「数学化」ではなく、事態の「細密描写」であるということである。数量化や数学化は、単に細密描写の手段であってそれが目的ではない。「より精しく精密に描く」ことにより、古い略画図の不明瞭さ、間違いが見えるようになるのである。

例えば、ガノレスが描いた、心臓と動脈の拡張収縮が同時同期だという作動図を「より精しく精密に描いて」みれば、それでは左心室内の血液が動脈に移行できないことがわかる。こうして、「動脈の拡張を起こす原因は、血液の迫力であること」が明瞭になる。



【 数量化の不可欠性 】

細密化には必ずしも数量化を意味するものではないが、しかしある程度以上の細密化には数量化が不可欠である。

この細密化、密画化の手段である数量化を使って、血液循環の整合性を確かめた。この作業は驚くべきことに、

「非常に新しい、かつ前代未聞のことなので、余はある一部の人の嫉妬から、余に対して危害が加えれらはしないかを恐れるばかりか、余は全人類を敵に回すことと恐れている」

と彼に言わせる程のことであった。
これが大げさに聞こえるのは、ハーベイの功績によって、我々には前代未聞のことでなく、常識的なこととなったからである。彼の概算的密画描写は我々にはありふれたものとなった。

彼は一回の心拍動で心臓から動脈に押し出される血液量を見積もり、半時間程度でその累積が全血液量を上回ることを見出し、血液は循環路を通って再びめぐり帰ってくる以外に、心臓を充満することは出来ないと結論する。さらには二、三の実験事実を加え、毛細血管の存在を予言した。



【 死物自然観への進行 】

こうしてハーベイは、アリストテレス、ガノレスの人体地図を、血液循環に限ってではあるが、より精細に細密化することによって整合的にしたのである。

だが彼の場合、より細密に整合的になったのは「死物描写」である。「物」の運動として、より細密で、より整合的となったのである。これにより物質的な細密化と反比例して、生命の役割が激減した。いや、ハーベイの場合、生命の役割は消滅の危機に瀕している。

「生気性の血液」は単に「熱い血」となった。もし彼が、ガノレスが「体の火の炉床」と呼んだ臓内部の温度が他の身体器官とほぼ同温度であること、その発熱機構も同類であることを知れば、ハーベイ生理学から「生命」は冗長な概念として消えるだろう。

このように、略画的世界観から密画的世界観への進行はまた、死物観、死物自然観への進行なのである。
それは、すでにハーベイに明瞭に見てとれるのである。



*次章は、天体観測における密画化の過程について述べられる。

(04/5/16) 目次へ

*1:1「人体地図とは単なる解剖図ではない。それは、呼吸、消化、血液流といった生理機能、さらに、感覚や思考といった『心の働き』をも含んでの、人間の『生きている図』なのである」(p77) 

*2:ウィリアム・ハーベイ(1578〜1657) 

*3:ヒポクラテス(前460頃〜前370頃) 

*4:では、現代生理学の主役である「脳」の役割はどのように考えられてきたのか? 大した役割ではなかった。無血で冷たい脳は、温かさを本質とする生命には程遠く、現代の意味での神経系を理解し得なかった当時としてはただの冷却装置──心臓内の熱と沸騰を調節する──にすぎなかった

*5:ハーベイは「血液」に生命を集約した。血液の循環が生命の循環であった

*6:エラシストラトス(前304〜前250)