4. 西欧古代中世における略画的世界観

「前章で日本・中国の略画的世界観を見てきたが、今度は目を転じて
西欧の古代中世のそれを見てみよう。
そのとき東洋と西洋との間に驚くほどの類似性が見てとれるだろう。
そのことは、略画的世界観というものが時代や文化の相違を超えた、
ある条件の下での人間に通有な、ものの見方考え方であることを示している。

物質の微細な細部の動きにまで立ち入らず、肉眼で見える範囲で気象や山川、
動植物や自分たち人間の動きを眺めるとき、人間と動植物、人間と天地自然は
一体共感するもの、つまり、自然は活きていてわれわれ人間と交感し、人は
この自然から生まれてまたそこに還るもの、として感じられるのである」(p60)





【 古代ギリシアの活きた自然 】

古代ギリシア人にとっても自然は活きていた。

アリストテレスにとって無生物の動きや変化は、「目的論的」に描写するべきものであり、アナクサゴラスにとってすべての事物は、生物・無生物の微細な種子(原子)からなるものであった。彼らは宇宙の全ては、水(タレス)、火(ヘラクレイトス)、土、水、火、空気(エムペドクレス)、空気(アナクシメネス)といった根源要素の離合集散、混合分離で成り立っていると考えていた。

根源要素を何とするかは異なるとはいえ、この考え方まさに現代物理学と同様である。現代物理も万物を素粒子の集合として見るからである。
しかしこの両者には決定的な違いがある。
それは、現代の素粒子は命のない死物であるということである。

「現代の素粒子は命のない死物である。この死物である素粒子がある配置をとって集まっている物体、それが生物なのである。死物素粒子のあるラインダンス、それが生命なのである」(p61)

しかしこの考え方には大きな難点がある。それは、

「この現代の見方は、『外から観察された生命』には見事に適合するが、『内から観察された生命』には適合しない。簡単にいえば、外から眺められた行動主義的生命には適合するが、感じ、喜び、考える心のあり方を説明できない、というより描写できないのである」(p61)


【 魂と物質 】

この難点を回避するため、現代物理学の原型ともいえるデモクリトスエピクロスらの原子論者は霊魂の原子を特別に用意したが、多くのギリシア人にとって心や魂を含む万物を構成する根源要素そのものが活きていると考えた。

プラトンに至って、魂と物質に一応の区別がなされる。
彼によれば、人間の魂は不死であり、造物主によって人間の脳髄に宿らされる。植物と人間との差はこの魂の階級の差であり(植物は下等の魂である)、どちらも霊魂の一部として共通していた。


【 アリストテレスの霊魂 】

だがアリストテレスは、生命を霊魂と肉体の結合であるとする二元論に反対する。

彼の霊魂は近代の行動主義*1を思わせる。
彼にとっての霊魂は、肉体の動きや欲求、感覚、運動、思考のパターンそれ自体である。といって、霊魂の宿らない無生物を死物的にみたわけではない。彼にとって事物の運動は、機械的必然ではなく、その事物の「本性」に従って起こる必然である。その事物に内蔵された原因、原理(自然=ピュシス)が目指している「目的」に向っての運動変化と見る。

たとえば「石の落下」は、「低位置を目指しての運動」という石に内蔵されている自然の本性によって起こるとみるのである。植物は、「実を結ぶこと」を目指して生長し花を開く。
アリストテレスの目的論的見方とはこのように、植物を中間において人間や動物と石の動きを「何々を目指して」というパターンで同類化することである。

「それによって無生物は生物に類縁化、血縁化されて、生物の仲間入りを果たすのである」

【 パターンの認識 】

古代天文学の完成者であった大プトレマイオスは次のように書く。

「地上の事物のほとんどが、生物、無生物を問わず、彼女(=月)に共感を持ち、彼女と共に変化する」

ここで現代人は、「ではどのようにして彼女の作用は地上の動植物に及ぶのか」と詰問するだろう。しかし彼は、その同じ詰問を万有引力そのものに対しても向ける義務がある。つまり、「ではどのようにして万有引力は離れた物体同士の間に及ぶのか」と。
ニュートンは言う。

「一つの物体から他の物体にその作用や力を伝えることのできる何か他の介在物をともなわずに、一つの物体が遠くにある他の物体に<空虚>を通して作用しうるということは、わたしには極めて不条理な事に思われます」(p67)

ニュートンは明言しないが、その原因を神に求めた。神の働きこそが重力の不条理を引き起こす、と。

しかし現代の我々はそれに答えない。
「重力が”事実”働いているのだ。終わり」

それなら大プトレマイオスは言うだろう。
「月は”事実”動植物に影響を与えているのだ。終わり」

そして後は、「事実」とは何かについての果てしない水掛け論となるだろう。


【 錬金術 】

錬金術とは類同化である。
表面上異なった現象の奥に隠されたパターン、構造を取り出し、それにより現象を分類、類同化する。錬金術事自体が失敗したことは明白であるが、その失敗は具体的な類同化法則の失敗であって、世界を類に分類して構造化するという見方そのものが失敗したわけではない。
現代科学に限らず、「発見の論理」にはこの類同化の思考法は不可欠であり、事物の細部を見ることのできない略画的世界観に生きる古代人にとって、この類同化がほとんど唯一の世界認識の方法であった。

この類同化を携えて、人は「細密化」に向かう。人の知的本能は、「より詳しく」「より緻密に」を目指し、その衝動は略画的世界観から密画的世界観へと進まざるをえない。


【 略画の密画化 】

世界の密画化を飛躍的に促したものは、観測器具の発達であった。

天文学における観測器具の発達は、天体運動の飛躍的な解明を促し、それは単に科学的発見だけでなく、当時の人々の世界観、宗教観にも大きな影響を与えた。建築や武器・衣装の道具の発達は精度を向上させ、より複雑な構造を可能とした。

密画化の一つの成果は地図に現れる。
我々の知的好奇心は、いつの時代にも未完成であり広大な空白部分を残す空間的・時間的全宇宙地図の完成を目指し、それらをより詳細に描き続ける。

この全宇宙地図の密画化は単に技術的な問題だけでなく、我々が接する世界の「意味」をガラリと変える。
つまり、略画では活きていた世界が、密画では死物となったのである。

常識的には略画的に描かれた世界よりも、密画的に描かれた世界の方がより正確に正しく世界を描写していると考えられている。つまり、略画的活物世界より密画的死物世界がより真実に近い世界を描いているとされる。

しかしこれは誤りであると大森は言う。

「・・・物と生命の基本的過程はミクロン、オングストローム、そして数千分の一秒単位で初めて描写できる・・・。それゆえ、古代中世の、高々ミリメートル、セカンドのオーダーの世界描写が誤った未開の世界描写である、ということは意味しない。それは、ミリメートル、セカンドの単位では現在でもなお「正しい概観」としてありうる世界観なのである。そして現代のオングストローム、ミリセカンド、の密画的世界観は、この略画的世界観を無視するという点で、逆の意味で略画的、より正確に言えば、『省略的』であり『忘却的』なのである。
木を見て森を見ないからである」(p71)

そして続ける。

「私が本講で述べたいのは、現代の密画的世界観に古代中世の略画的描法を重ねうるということ、そしてそれによって死せる自然を今一度活性化しうる、ということなのである」(p71)


*次章は、略画の密画化が実際どのようにして起こってきたか具体的な事例を挙げて述べられる。

(04/5/6) 目次へ