3. 日本における略画世界
【 古代日本の神々 】
前章で述べた略画的世界は、古来日本においても存在した。
古代の日本は神々で溢れていた。
『古事記』に登場する神だけでも三百を超え、一説には総神口は「八百万(やおらず)」とも言われる。その神は、アマテラス、スサノオといった人格神だけでなく、生産力の象徴神としてのムスビの神、ウケモチの神といった特定の性格をもった神の他、無数の自然神が存在した。中国の神が抽象的あるのに対して、日本の神は実物の神である。本居宣長は言う。
「御国にては人のみにあらず、龍神のたぐひ、或いは虎狼などのたぐひにても、凡て神霊であるもの、畏れ多きものを、皆現神のかみと云う。また、生類のみにあらず、山川海のたぐひにて、神霊ある。また、畏れ多きものは、直にその物を指して神と云う」(p36)
そこに現れる人格神は人間世界からかけ離れた至高の存在でなく、人間と同じく生き死にする存在であり、悪どい神、善良な神といった人間臭い神でもある。人も死ねば神になった。神と人間は同じ世界に生きる繋がりをもっていた。
現代の我々がこの御神に溢れた世界を共有することはできない。
だがこの世界は論理的矛盾でもなく、現代科学と相対するわけでもない。実際に我々は、受験の前には神社に願をかけにいき、賭博師がゲンを担ぐ。
【 日本の霊たち 】
我々の祖先たちの宇宙はまさに略画的であった。
彼らの住む葦原の中つ国の上には高天ヶ原があり、地下には黄泉の国、東には不死の楽園、西には「ははの国」があった。神と人間はその世界を互いに行き来していた。
中世においては、死霊、生霊、物の怪がこの世に横行し、彼らは風邪のウイルスのように、病人や産婦に取りついた。
清盛の娘の建礼門院のお産の時には、清盛に怨念を抱く死者生者たちの霊が院に乗り移ってきた。そこで、死者には「御追号、贈官贈位」をあたえ、流人たちには「非常の赦」をあたえて都へ帰ることを許し、彼らの怨念を和らげようとした。『平家物語』の筆者は「怨霊はかく恐ろしき事也」という。
一方『源氏物語』での怨霊の主役は、光源氏の高貴で嫉妬深い情人、六条の御息所であった。
彼女は、生前は生霊として夕顔と葵の君を殺し、死後は死霊として紫の上と女三の宮に取りついたがこちらは未遂に終わった。
このような生霊、死霊はその後滅びたわけでなく、生き延びて、江戸期の『雨月物語』、明治の小泉八雲の怪談に姿をあらわす。
しかし現代の我々は、それらの存在を感じる感性を失ってしまっている。
それは科学的に検出できず、科学理論によって理解できないからである。科学的な存在者ではないということは、いかなる意味でも存在しないと言うことではない。ただ科学的存在者ではないということを意味しうるだけである*1。
「私は何もここでオカルト的存在を信じよ、といっているのではない。ただ、オカルト的存在を信じた人々は何も誤謬を犯したわけではない、彼らは現代のわれわれにはもはや失われた感性と存在感覚をもっていたことを理解すべきだといいたいのである」(p41)
【 朱子学 】
その感性は、かつての中国人もまた持っていた。
現代的・現実的といわれる儒学でさえも、略画的であった。そこでの事物は科学的死物ではなく活物であり、人間と天地宇宙は一体であった。
それを中国哲学の思考法である朱子学*2に見てみよう。
【 陰陽二気論 】
朱子学は、「理」と「気」の二つの概念を基礎とする。
「気」の概念は、易経の陰陽二気の考えから受け継がれ、生気をもつ霊的な物質である。「気」は、人間を含む宇宙の万物の共通素材である。澄んだ気が凝集すれば人になり、濁った気は物となる。「気」は、様々に運動、凝縮、希薄化し、天地万物を形作る。
「気の回転によってその中心部に沢山の濁った気の滓が凝結する。それが大地である。その地はやがて半球状の水に浮かぶ方形の板状のものとなり、その地と水はそれを取り巻いて回転する「気(天)」によって支えられる。・・・ざっとこのような調子でさらに雹や雪の結晶の六弁や潮汐が説明されてゆくのである」(p44)
では、心を備えた人や動物の「気」はどうか? それらも同様である。
「『知覚をもった精神魂魄といわれるものは、すべて気のしわざ』であり、魂魄の「魄」は身体で「気」の静かなるものである。しかし死物的物体ではなく、視聴覚のような知覚、それに記憶、弁別といった受動的な心理作用もまた魄の働きである。それに対して魂の方は「気」の動なるものであって・・・いずれにせよ両者とも「気」であり、したがって「集まれば存在し、散ずれば存在しません」なのである」(p44)
【 理と気が自然と人間を貫通 】
この「気」の概念に「理」の概念を組み合わせたところに朱子の独創性がある。
「理」とは、ギリシャ哲学の「形相」(イデア、エイドス)に近い。万物には理が備えられ、たとえば椅子には「座る」という理がある。もし足が一本折れて座れなくなれば、その椅子は理を失ったことになる。
この「理」は、自然と人倫に共通して貫通するものであった。
現代では自然の理(自然法則)と、道徳の理(道徳的根拠)とは別物として考えるが、儒教のそれらは一体化されている。現代風にいえば、人間道徳を自然現象に擬人化したとか、自然を道徳の象徴とみたとかいえるが、そうではない。擬人化や象徴ではなく、事実として自然は倫理的なものであり、人間と自然は一体であったのである。
足の欠けた椅子は壊れた物なのではなく、仁義礼知から外れた人間と同じく、「正しくない」椅子である。そこに境界はない。
この自然と人倫の一体化した世界観は、自然現象を観察することにより正しい理を洞察し、その理にしたがって生活し政治を行うことが理にかなった人間の任務となる。人倫は自然の理を元にして決定される。
【 天地自然は活物 】
このような自然の倫理化は、えてして恣意的なこじつけ、滑稽無燈な屁理屈になる。
明の王陽明、江戸期の伊藤仁斎、荻生徂徠らもその点で反発する。
しかし彼らが反発したのも、細部にわたるこじつけであって、自然を倫理的に見るという略画的な大枠は保たれる。むしろ細部を放棄した分、略画的な大枠は強調される。
王陽明が人間の倫理的判断の根本能力とした「良知」は、天の理そのものであった。
「天地万物は人と本来一体のものであり、・・風雨露雷、日月星辰、禽獣草木、山川土石のすべてが、人と本来一体なのである。・・・ただこの一つの気を同じくしている。そのことゆえに、通じ合っているのだ」(p48)
荻生徂徠にとって自然は、人知の及ばざるところであった。しかし、それは凡人のことであって、聖人*3は理を極めることができた。この聖人が制作した道徳が人倫の道であり、彼らのそれが絶対的だといわれる理由は、聖人の理と天地自然の理とが合致するがゆえであった。
【 伊藤仁斎の場合 】
仁斎は、朱子学の倫理観を逆転させた。
すなわち、自然を倫理的に観じ、それによって人間の倫理を自然によって基礎づけるという思想に反対し、人倫によって天地自然の意味を基礎づけようとする。
仁斎にとって天地自然は一大活物であり、そこには一元気という生命力が貫通している。それを自然から直接感じ取ることが「活道理」を知ることである。その反面、形而上学的「理」で天地を理解しようとする朱子学は「天地を以って死物と為す」ことであり、これに徹底的に反対する。彼は、一元気の「陰陽往来」としての天道と、仁義という道徳としての人道とを峻別し、この二つを混ぜて統一することを否定する。さらに彼はいう。
「天地の気である陰陽をもって人倫としないのは、仁義をもって天の道としないことと同じである」
ここで彼は朱子とは逆に、人倫によって天地自然の意味を基礎付ける。その人倫を何によって基礎付けたかといえば、人間性の本性によってである。
こうして仁斎は、朱子学の自然と人倫の関係を逆転させたが、それは基礎付けの逆転であって、自然と人間の密接な一体感は依然として保存されているのである。
「自然は死物ではなく生々たる活物であり、同じく活物である人間と「一元気」において同体なのである」(p52)
「この人間と自然の連続性・同体性は、上で述べてきた、朱子・陽明・徂徠・宣長においてもその世界観の根底であった。つまり、東洋の略画的世界観の根底であったのである」(p52)
*次章は、西洋古代中世における略画的世界観を述べる。
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