2. 略画的世界観


「1章で述べたように、現代のわれわれは自然科学が描く密画世界観の中で
生き、考え、眺めている。

その中でレヴィ・ストロース(Claude Levi-Strauss,1908〜)の呼ぶ
「野生の思考」に近い略画世界観を了解するには、
ただわれわれの想像の中でそれを構成し復元するほかはない。
しかしそれはさして難しいことではない。

なぜなら、高々百年の余の以前、江戸期のわれわれの先祖達が持っていた
世界観もその一種であるし、さらに時代が遡るにつれて、今日から見れば
滑唐無稽とも思える要素が増えるにせよ、その大筋の骨格においては
今日の科学的思考と同様に「理のかなった」世界観だからである。

そして以下で述べるのはその大筋の骨格なのである」(p22)



【細部による理解の限界】

16、17世紀の科学革命によって生じた世界観の変化の要因を、それ以前の略画描写と、それ以後の密画描写におく大森は、まず、現代では失われた略画描写と、その描写によって現れる略画的世界観がどのようなものかをこの章で説明する。

その世界観を復元するためにはまず、現在のわれわれの世界の見方(密画的世界観=科学的視点)をカッコにくるんで棚上げしておかねばならない。

例えば、植物の生長の仕組みを解明するとしよう。
略画描写とは、顕微鏡などを使わない、「見えているそのまま」の描写である。種子が発芽し、茎が伸びて枝葉を出し、花が咲き、その後果実が結実するといった描写方法である。

しかし、このような略画描写では、植物の生長の原因を理解するのには限界がある。
葉をむしれば枯れるとか、根から何らかの栄養があがっていくといった目に見える変化は理解されるだろう。だが、なぜ葉が大きくなるのか、花びらはどうして咲くのかは理解できない。これを理解するためには、顕微鏡のような機器を用いて、細胞レベルの観察が不可欠となる。
この細部観察が、密画描写であり科学の本質でもある。


【不透明による理解の限界】

さらにもう一つの理解の限界がある。
それは、「不透明」による限界である。

生物は食物を食べて、それを血肉に変化させて生きている。もし、われわれの体が透明ならば、その仕組みが理解されやすいであろう。もし、大地が透明であるならば、地球が丸いことは昔から気付かれていただろう。
このように不透明性は、物質レベルでの我々の理解を妨げる。


【心の透明性】

ところが、これら細部や不透明による妨げが存在しないものがある。
それは、自分の心である。
これは観察したり理解したりする必要がないほど、自明で見透かされている。

その一方、他人の心は全くの見透かしがきかない。
他人の痛みは自分には全く痛くないし、他人の喜びや悲しみは私の喜びや悲しみではない。他人の心は原理的に私には閉ざされている。

にもかかわらず、私たちは他人の心を理解している。なぜか?
──他人の心を「私に擬して」理解しているからである。

しかし、「私に擬す」のは他人の心だけではない。
私たちは、見ず知らずの他人の心よりも、自分に親しい飼い犬や飼い猫の心をよく理解できる。それは、われわれが人間だけでなく、動物にも「私に擬す」方法を用いているからである。

これを人間だけ特別扱いをして、「動物を『擬人化』しているだけだ」というのは間違いである。「私に擬す」他者の心の理解方式は、相手が人間であろうが動物であろうが、何ら基本的な性格を変えたりしない。ただ、われわれは同種の人間に別格の親しみをもっているゆえ「私に擬して」いることを忘れているだけであり、動物だけに「私に擬して」いると考えてしまうのだ。

この点を見落とすと、森や湖にまで心あるものとする未開人の思考であるアニミズムを、何か迷信じみた怪しげなものとして捉えてしまう。しかしアニミズムは決して迷信や虚妄ではない。

「森や湖に心を付することが迷信ならば、人間仲間に心を付することもまた迷信でありアニミズムなのである」(p25)

本質的にはどちらも同じく、「私に擬して」理解しているからである*1


【「私に擬して」】

この理解方式は、科学が発展しているしていないに関わらず、われわれ現代人にも共通する理解方式なのである。ただ、現代人と未開人との違いは、その適用範囲が広いか狭いかだけである。

「未開人はこの理解方式を森や湖、時には森羅万象の全てに適用するのに対して、われわれはそれを気が狭く人間だけに、時にはしぶしぶ動物に、時にはとっぴなことにコンピュータなどに適用するのである」(p26)

ではこの適用範囲の違いはどこから生じるのか?

「それはわれわれ現代人が、事物のあらゆる細部を不透明な事物の内部に至るまで”物として”完全に理解できる、と信じていることからくる。事物は物として、とことんまで理解可能だと信じているがためである」(p26)

「こうして事物は物としての理解方式で了解できると信じているゆえに、私に擬しての心的理解方式は不要である、さらにはそれは誤りである、と考えるのである」(p26)

それに対して未開人は、事物の現象を物の現象のみで説明することはできない。それゆえ彼らは「私に擬して」事物を理解しようとする。

「それを現代人が、なるほど事情はわかるし彼らに同情する、しかし現代の目から見れば残念ながらやはりそれは間違っている、というとすれば、残念ながら間違っているのは現代人の方である*2

「とうとうと流れる水や、森をざわめき渡る風を「心ある生き物」として理解することは現代の目から見ても何の間違いでもないからである」(p27)

現代の我々は、流れる水をH2O分子の集まりとして、死物として理解する。
「生物」の定義を、物質の代謝や生殖を条件とする現代人と、「私に擬して」ごうごうと泡立ち、流れ、波立ち騒ぐ水の流れを「生き物」と見る未開人とは、単に「生き物」に対する感覚と定義とが違うだけである。一方が正しく、他方が間違っているとかいえるものではなく、両者は両立するものである。
このとき、天地は霊と魂とをもった生き物で満たされる。


【略画的世界観】

この略画的世界観の中では、様々な出来事は物理的な「因果関係」でなく、「目的−因果関係」として了解される。

「水の流れも下の方にもがき逆らい怒号しながら引きずられてゆくとも、喜々として歓声をあげながら坂を駆け下りてゆく・・。その勢いに巻きこまれて小石は脅えながら転がされ、小魚は逃げまどい、水草は流されまいと必死に根で川底にしがみつく」(p29)

この略画的描写を科学的因果関係で描写すれば、石や魚や草が水の勢いに負けるのはそれらの軽量による物理的特性が原因であり、大岩が微動だにしないのはその重量による。

同じ小川の流れを、「目的−因果関係」として、いわば「私に擬して」了解することと、機会的因果関係で了解することは両立する。これらを一つの出来事の二つの描写として重ねることは可能である。

この目的−因果関係は、呪術や魔術さえも容認する。

雨乞いの祈りを原因として雨が降るといってもなんら矛盾は起きない。それを現代科学が排除するのは、それが偽りだからでなく、それがなくとも科学的説明で十分説明がつくからである。
私が風邪にかかったのは、昨日の惑星の位置がウイルスの進入に加えて働いたことが原因だ、といっても矛盾はおきない。私の体に惑星から物理作用が働いていないことはいえても、非物理的作用も働いていないということを物理的に証明することは論理的に不可能であるからだ。
もしそれがオカルトというならば、ウイルスが進入すれば風邪をひくこと自体がオカルトである*3

「そしてそこ(略画的世界)では山川草木すべてが生きている。『物』は現代物理学が描くような死物ではなく、『生き物』なのである。この生き物にあふれた世界で人はまたそれぞれしがない生き物、苦しい生活を送り、病気や死に、絶えずさらされている短命な生き物でしかない」(p32)

「しかしここには自我対死物世界といった対立は生じえない。
自分と天地の間に距離がない。自分は死物的肉体と生きた心の合成物ではなく、いわば全身で生きているのだから、世界は自分の皮膚に密着している」(p32)

この略画的世界観が近代科学に基づく密画的世界によって克服されたと考えられている。しかし、この通念こそ今一度検討しなおされねばならない。
これこそが現代文明の最も基本的な課題であると大森は言う。

*次章は、日本における略画世界を様々な思想家の言葉を通して描く。


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*1:参照「ロボットの言い分」id:Paul:20010103

*2:この突拍子のない大森の台詞を読んで、初めて大森を読んだときのことを思い出した。この時受けた衝撃こそが、僕が哲学に惹き込まれた最大の理由である。「想起を過去経験の再現だというこの考え方こそ人類に棲みついた最も深い誤認ではないだろうか」(『時は流れず』p50)。「それはわれわれが堅持していると思っている『決定済みの過去の実在』という信念に走った一筋の亀裂ではあるまいか」(『時は流れず』p71)」(p26)。

*3:ここまで辛抱強く読んでくれた人も、この辺りで投げ出すのではないだろうか。僕には大森のこれらの言説の真意を正確に汲み取ることはできないが、僕なりには次のように考えている。大森が主張しているのは、雨乞いや惑星の運動といった非科学的な要因の存在ではもちろんない。そうではなく、科学的事実に裏付けられていない現象はオカルトだと我々は断定するが、それをいうならば、科学もオカルトの上に築かれたものであり、そもそも世界自体がオカルトで成り立っていることを示したいのだと思う。大森は、「脳の物理的現象から、痛いという感覚が生じるのかわからない」ということにしつこくこだわった。それはまさにオカルトである。なぜある物理現象が、まったく異なったカテゴリーである心的現象と関連を持つのか? このオカルト性に、脳生理学の「脳がかくかくの状態になった時、しかじかの感覚現象が生じるのは実験で確かめられています」という説明は何の回答にもなっていない。それはオカルトに答えたのではなく、単に飛び越えただけである。哲学者とは、世界の混沌、オカルト性に気付き、それを飛び越えようとせず、それに対して合理的な説明を行おうとする人だと思う。ガリレオニュートンもそのオカルト性に気付き、彼らなりの方法でそれに答えようとした。それは見事な解答であったが、そのあまりの見事さゆえに、その方法で世界のオカルト性が消滅すると考えただけでなく、それで解決できないものは全て妄想であると決め付けた。「科学の守備範囲でないものはすべて妄言である」と。こうして、世界のオカルト性は実在しないものだとして隠蔽された。しかし、世界とはもともとこのオカルト性によって成り立っているのだ。「なぜ、世界は数学で記述できるのか?」「なぜ、同じ脳内物理反応でありながら、見る、聴く、匂う感覚がこうまで異なっているのか?」「なぜ、過去の自分には会えないのか?」「なぜ、私はこの場所、この時に生まれてきたのか?」「宇宙の端、時間の始まりは一体どうなっているのか?」。昔の略画世界に生きた人々は、世界のオカルト性に気付いたゆえに、神や創造主といったものを考え出した。現代人が神や創造神を必要としないのは、けっしてそれらの非実在を証明したわけでも、必要がなくなったわけでもない。ただ単に、密画的世界観に慣れすぎて、略画的世界観では明白な世界のオカルト性に気付かない、もしくは気付いても非科学的で馬鹿馬鹿しい戯言として見なかったことにしているだけである。僕は無宗教で、神や仏を信じるものではないが、哲学的な意味での神(世界の創造神)を想定する心情はなんとなくわかる。それを想定しない限り、世界のオカルト性の解消を諦めるか、それともその問題を見なかったことにするかのどちらかしかない。それが受け入れられない人は、何らかの創造主を想定してしまうだろう。大森哲学とは、世界のオカルト性に気付いた一人の人間が、それに目をそらすのではなく、それを凝視し、創造主に頼らず、それに合理的な説明を加えようと苦闘した痕跡だと思う。哲学の真の価値とは、彼の理論の整合性や堅固さにあるのではなく、彼がそのオカルト性にどれだけこだわり、悪戦苦闘したかにあるのではないか。(パスカルid:Paul:20010105)