1. 概説的序論


    「文明の危機だとか、文化の変革期、といった言葉が何時でも
    叫ばれてきたのが近代の性格の一つであろう。それは生活と
    思想との変化のテンポが速くなってきたことを示すものかもしれない。

    その変化には短期的な波、中期的な波、長期的な波があるだろう。
    1980年代の今日、現代文明の変革を云々するときにわれわれが
    感じているのは、その最も長期的な波ではないかと私には思われる。
    数千年のオーダーの波長をもった波ではないか、と。

    私が考えているのは、西欧の16.7世紀頃に起こった科学革命が
    推し進めてきた現代文明が、20世紀の今日、一つの転回期にきた
    のではないか、ということである。

    こういう最も目の粗い縮尺で見るならば、東洋と西洋という対立は
    消えてしまう。
    だからしばしば安直にいわれる、今こそ東洋的思想の出番だ、などと
    いうこともない。西洋科学の分析的思考法と東洋の総合的直感的思考法
    などというコントラストも霞んでしまう。

    その代わりに眼につくのが、洋の東西を問わずに、近代科学以前の世界観と
    近代科学に基礎づけられている近代的世界観とのコントラストである。

    この二つの世界観の交替が起きたのが西洋では先に述べた16.7世紀の
    科学革命であり、東洋、特に日本では幕末から明治にかけての西洋思想の
    流入期である。

    そして現在この近代的世界観が西洋でも東洋でも問い直されているのである」 (p12) *1




【 世界観の交替 】 p13

近代科学は、たんに技術上、思想上だけではなく、従来の人間観、世界観にも大きな影響を与えた。元来世界観とは、単なる学問的認識ではない。我々のありとあらゆる人間生活に密着した世界の見方である。近代科学は、この日常生活の基盤となる世界観に、根本的な変革をもたらした。

その新たな世界観とは、世界を死物の下に見ることである。

「まずは死物世界が支配するようになった。
自然は死物的原子分子や電磁波以外の何物でもない、と。原子分子や電磁場はただ幾何学と運動学の言葉だけで語られる死物なのである。その自然の死物観が人間の肉体にまで及ぶことは当然の、いや不可避なことであった」 (p13)

近代科学の方法論は、世界の構成要素を「心」と「物質」に分け、後者のみを限定して扱う。
この方法論は、数学的記述と相伴って、劇的な成果をあげる。しかし、その反動で、世界のもう一方の構成要素である「心」が置き去られた。物質は客観的に記述できる。しかし、心の現象は人それぞれ主観的なものである。よって、世界の根源的な要素は心でなく物質であり、物質とその法則を明らかにすることにより、真の世界は解明できるはずだという幻想が起こった。心は世界から排除された。その結果、世界とは死物の集まりであるという世界観が生まれた。この自然の死物観の下で人間を観察すれば、人間とて死物の集合体である。いわゆる生命現象も、死物による物理化学過程として理解される。*2

「こうして人間の肉体もほぼ死物化された。そして心の座とされる脳の作動も現在その死物化が進行中である」 (p13)

【 心のありか 】 p14

人間の心は、自然からはみ出してしまった。
このはみ出した心は、どこに行くか? ──私達それぞれの身体内の「どこか」である。
心は一人一人の「内心」に押し込められた。

「こうして感情も、美的感覚も、道徳観も、すべて個人的主観的なものとして、それぞれの『内心』に押し込められるようになった」 (p14)

その結果、次のような現代世界観の基本的枠組みが成立する。

「この外なる(肉体を含んでの)死物自然と、内なる心の分離隔離、それが近代科学がもたらした現代世界観の基本的枠組みなのである」 (p14)

この枠組みの下で、我々は日常を生きている。
私の「内心」は、私の物質身体の覗き穴(眼、耳、皮膚)から、喜怒哀楽、美醜、善悪等のフィルターを通して、外部の死物世界を透し見ているのである。近代科学の基盤であるこの枠組みは、覗かれている物質世界の解明には大いなる貢献を果たした。だが、覗いている「内心」に対しては何をしたのだろうか?

荒涼とした広大な死物世界の中に孤立する私の心。*3 永遠の昔から永遠の未来まで、機械仕掛けの時計のように淡々と続くこの宇宙。その一瞬のこの現在に偶然現れた私の心。*4

「世界全体の徹底的な死物化、その中にエアポケットのようにバラバラに散在する各人の心、この図柄に不安を覚え始めている。どこかおかしい、と。」(p14)

【 現代世界観の誤り 】

大森はここではっきりと「この世界観は誤りである」と宣言する*5
では、いつ、どこで死物世界観は生じたのであろうか?彼はその出発点を、近代科学の思想的代弁者ガリレイデカルトに求めた。彼らの掲げたテーゼは次のようなものである。

「客観的事物にはただ幾何学的・運動学的性質のみがあり、色、匂い、音、手触り、といった感覚的性質は人間の主観に属する」 (p15)

このテーゼをデカルトのテーゼと名づける。世界を解読するための一つのモデルであったこのテーゼを*6、これこそが世界の真の成り立ちを映し出したモデルだと考える。この誤解から、自然の死物化とそれに伴う心の内心化が始まった。しかし当時のデカルトがそうであったように、物質(身体)と心を結ぶ物が何かを明確に確定することはできなかった。だが、現代脳生理学は、この死物自然と内心をつなぐ鮮やかな理論を構築した。

「日常われわれが見たり聞いたりしている、色あり匂いある風景風物は各人それぞれの『心の中』(意識の中)の印象に過ぎず、それらは客観的事物から感覚器官を通して脳に届く作用によって生じたものだ」 (p15)

これは、「外部からの物理的信号が身体を通り脳に達する。その時、脳内のニューロン発火がこれこれの状態になると、”その結果”、かくかくの知覚風景が現れる」という知覚因果説である。脳生理学のこの見解は、デカルトのテーゼを補強するだけでなく、新たなテーゼを産み出した。それは、「脳が世界を産み出す」という一見オカルト的なテーゼである。*7 *8この奇妙なテーゼは、デカルトに帰せられる。彼のテーゼの下で、我々はいまだ世界を、人間を見ているのである。

大森はこの転換の過程を明らかにするため、次の補助線を引く。

「近代科学以前の世界観から近代的世界観への転換を、略画的な世界観の密画化としてみる」 (p17)

「略画とは、世界を時間空間的におおよそに描写して、細部に留意しない・・世界像のことである。それが暫時精密化されてゆくことを密画化と呼んだのである*9」 (p17)

この密画化は科学の性質からして必然の過程であった。その結果、科学の進歩は爆発的にすすんだ。だが影響は学問上のそれに留まらなかった。ガリレイの望遠鏡による天体の密画化は、旧来のアリストテレス天文学だけでなく、古代中世の宇宙観、宗教観、ひいてはその世界観をも崩壊させたのである。



【 生きた自然との一体性 】p17

「この誤ったテーゼが、古代中世(中国、日本を含んで)の略画的世界観が持っていた、活物的自然と人間との一体感を抹殺していったのである」(p17)

科学とは密画化である。世界をより「精しく」「細密に」描くことである。
しかし、略画的世界観のもっていた、活きた自然との一体性という感性は密画化によって失われた。
しかし、大森は言う。
密画化によっても、人間と活きた自然との一体性を廃棄する必要はないのだ、と。デカルトのテーゼを廃棄しても、科学は何も変わらないのである。ただ、科学の描く世界像を今までとは異なった目で見ればいいのである。

「おおまかにいえば、日常生活の風景と科学者が原子分子や電磁場で描く世界は一心同体、一にして同じもの、と見るのである」 (p18)

これが大森が提示した代案、「重ね描き」である。
科学が描く無色無音の死物世界に、我々の心の世界、つまり、色や音をそのまま重ねればいいのである。

目の前にコップが見えるとする。そのときの科学描写は次の通りである。
「かくかくの原子がこれこれのように集まって、それに反射した波長○○nmの電磁波が網膜に届き云々・・」
重ね描きとは、科学描写で描かれたこの物理空間に「つやつやした白系の半透明なコップがある」という知覚風景を重ねるだけである。

「なんだ、それだけか」と落胆する人もいるだろう。
しかし、「暇人の机上談義」*10に見えた先のテーゼが、結果として我々の日常生活にまで大きな影響を与えたことを考えれば、この見方の変更がもたらす影響も少なくないはずだと大森は言う。
なぜなら上のように見ることは、少なくとも知覚の場面では『心』と『世界』、『心』と『自然』とが一枚岩だと見ることだからである。

さらに続けて大森は、この一体化は知覚だけでなく、全ての心の働き(感情、想起、意思、等々)にもいえるはずだと言う。これによって、「心」と「自然」は一にして同一、完全なる一体化が成し遂げられる。



【 感性の復元の可能性 】

「生きた自然との一体化」はけっして現代科学とも相対立するものではない。むしろ理論的にはそうなるべきである。そして、科学革命による波の次の波は、この思想に則ったものでなくてはならないと大森は言う。

だが、我々は物心分離の世界観の下で、父祖の代から暮らしている。この習慣の下でものを眺め、感じ、語ってきているのである。それを覆すのは並大抵のことではない。
大森はそれを前提に次のように言う。

「したがって、「我れ天地万物と一体」という王陽明の言葉を、文字通りに感じ取る感性を取り戻すのは容易でない。それは習慣を変え、感覚を変えることだからである。さらに或る程度言語を変えることだからである。それには、おそらく半世紀から1世紀の必要ではあるまいか。本書の目的は、その長い変革のただ門を開くだけのこと、すなわち、まさに現代科学の下ででも、その変革(あるいは感性の復元)が理屈の上では可能であり、また当然であるということ、それを示すことにだけ限られている」 (p20)

(第一章終了 04/3/7)

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*1:大森の文章の温度を体感できるよう、章始めの前振りは全引用した。これからもする。

*2:生物体を構成する要素はある種の生命体に支配されているとする「生気論」と、生物体をただの動物機械と見る「機械論」の争いは長く続いた。しかし、現代の分子生物学に至って勝負はついたといえる。もちろん後者の勝ちである。ただし、”今のところは”である。「物−生命」の構図自体を替えようとするのが、大森哲学である。

*3:A・ジャコメッティの彫刻 http://moma.org/exhibitions/2001/giacometti/start/goflash.html(Java on)。ジャコメッティ実存主義的にみた世界からの疎外だが。 

*4:「これらの無限の空間と永遠の沈黙を私はおそれしめる」(パスカル『パンセ』206 id:Paul:20010105)。科学者であるパスカルにとって世界とは、徹底的に無機質で機械的な死物世界であった。人間は、この無限の空間と永遠の時間をもつ機械的世界のただ中に偶然投げ出された存在者であった。この死物世界の中に自分の存在をつなぎとめるものは存在しない。それゆえ、彼は神にそれを求めた。彼にとって慰戯(人間が日常行うすべての行為)とは、この現実から眼を背けるための手段であった。「彼らは彼らの追求するものが獲物ではなく、狩そのものにほかならぬことを知らない」(『パンセ』139)

*5:この誤りの起源を突き止め、どこが誤っているのかを明らかにし、それに代わる代案を提出することが本書の狙いである。(常識批判 id:Paul:20020104)

*6:近代科学の目的は、普遍的で客観的な世界を明らかにすることである。それは必然的に対象を、数学的に記述できる事物の幾何学的・運動的性質(第一性質)に限ることであった。この目的ゆえ、それ以外の色、匂いといった感覚的性質(第二性質)は研究対象から排除された。この「研究対象から」排除されることが、いつのまにか「世界からも」排除される原因となった。

*7:「脳が世界を産み出す」とは、明らかにおかしなテーゼだが、現代脳生理学はこのテーゼの上で発展し続けている。たとえば茂木は、「クオリア(知覚風景)は脳内Nの発火状況によってのみ決まり、外部の事物や物理信号、感覚器官等は一切考慮しない」(認識のニューロン(N)原理)を宣言する。id:Paul:20031201。そして、これは正しい仮定だろう。例えば、ある人が狐の幻覚を見ている。その時、彼の脳内N状況は、現実に狐がいる時と同じN状態となっている。脳内Nのレベルまで降りてくれば、幻覚も幻聴も消滅する。それは「脳−クオリア」は完全に対応していることを示す。(id:Paul:20031202の3)。知覚風景は脳内Nだけで決まるとは、つまり、理論上は水槽で培養された脳でも、私達と同じ知覚風景をクオリアを生じさせることができることを示す。そして、これは独我論へ至る考えでもある。

*8:我々の日常的感覚に照らせば、「私の心はどこか?」と問われれば、「私の身体内のどこかにある」と答えるのはそうおかしいものではない。しかし、その論理的帰結として現れる脳生理学のテーゼをすんなりと受け入れる人は少ないだろう。どこで、そのねじれが現れるのか? それは、脳生理学テーゼの理論的源泉であるデカルトのテーゼが誤っているからだ、と大森は言う。大森は、脳生理学のテーゼを否定するだけでなく、デカルトのテーゼ(それは、我々の常識であるが)まで遡り、この誤ったテーゼの発生の由来を突き止めようとする。

*9:フッサールは近代科学の特徴を自然の「数学化」と指摘したが、大森は「密画化」だという。密画化とは、数学化だけではない。むしろ数学化は、密画化の一つの方法であると大森は述べる。これは後に詳細に述べられる。

*10:大森は、ガリレイデカルトのテーゼを「暇人の机上談義」と呼ぶ。