文庫版へのはしがき

ここでは、本書が生じた経緯と、内容の大まかな流れが記されている。

【 本書が生まれた経緯について 】(p7)

「本書は元来放送大学設立に際して、その『人間の探求』コースの『知識と学問の構造』という専門科目のための教科書として『知の構築とその呪縛』という副題を付けて執筆したもの・・である」 (p7)

本書は、専門誌に書かれた専門家向けの論文ではなく、哲学初学者のために書き下ろされている。この目的から、哲学史をまったく知らない初心者でもすんなりと入って行ける内容と言葉で構成されている。*1 *2

初学者向けだからといって、思索の深さは彼の他の著作と比較して決して劣らない。
それどころか、大森哲学の世界観全体を俯瞰できるのは、この本しかない。一見奇妙に思える大森一元論も、この本を読めば、なぜ彼が新たに理論を構築せざるを得なかったかわかる。彼の一元論が受け入れられない人でも、彼が問題とした現在我々の世界観に対する疑念を共有できる人は多いのではないだろうか?

本書で提出された彼の問いは、哲学に関心はなくとも知的好奇心にあふれる人ならば、必ずや大きな刺激を受けるであろう。


【 本書の大まかな流れ 】(p7)

我々は、自然科学で描かれた世界が真の世界であり、日常我々が直接認識している世界は見かけの世界であると思っている。しかし、それは違う。自然科学とは、日常的な見方で見られた世界を、より「精しく」描いたものに過ぎない。日常の我々が見る世界を「略画」とするならば、科学は世界の「密画」にあたる。科学の歴史とは略画からより精しい密画への発展史である。具体的に言えば、日常的見方を数学的記述へ置き換えることであり、トレミー天文学が、ケプラーガリレイ天文学へと置き換わることである。

だが、この略画的世界観から密画的世界観に展開していく途上で、通常見逃されている人間性の危機が生じた。
感覚や感情を始めとする人間の「心」に帰属する一切が、科学から排除されることになり、その結果、世界とは死物の集まりであるという世界観が生まれたのである。

「現代科学が描く宇宙や人間の姿は索漠たるものになった。ビッグバン以来、ブラックホールの出現まで、この世界の進行には人間的な意味は一片たりともない。全ては人間に無関心に、人間とは無関係に冷然と進行してゆく。そして人間自身が、この科学的に厳粛な世界運行の微小な切片として、たまたま出現した素粒子集団に過ぎない。・・・伊藤仁斎の言葉を借りると、わが身を含んで全世界が『死物』の一大集塊となる」 (p9)

「この死物世界の内では、人間の存在もその営為も何の人間的意味も持たない。道徳的行為も芸術的活動も放射能崩壊や惑星運動と同様に、無意味な死物運動に過ぎない。こういう見方が、現代科学が与える世界描写で・・ある」 (p9)

この世界観が、現代に生きる我々を巣食う不安の根源でもあり、「科学革命」といわれる運動の哲学的意味でもある。

この不安を沈静化する方策はあるか?
一つは脳生理学的方策である。これは、脳の因果作用によって、感覚や感情といった心の現象を出現させようとするものである。しかし、この方策に見込みはないと大森は言う。
この方策に代えて彼が本書で提案するのは、「重ね描き」の概念である。*3

「それは単純極まる方法である。事の発端は科学の初期段階で感覚その他の『心』の諸相を排除したことなのだから単純にそれらを取り戻して科学の世界像の上に重ねて描く、ただそれだけのことである」 (p10)

「脳に発する因果作用によって色彩や音が生じるといった一見して不可能な脳生理学の道をさっさと諦めて、科学の無色無音の死物世界の上に、色や音を重ねて描くというただそれだけのことである」 (p10)

この新しい方策は、最終15章になって始めて現れるが、そこに至る全篇でそれが必要とされる理由が説明されている。*4 *5
(04/2/24)

*1:大森の文章は、もともと平易な日常語で書かれ、その上美しく、文学的だ。しかも、思考の舞台は常に日常である。ともすれば、難解な語と経験からかけ離れがちな「地上遥か上方、大気圏で思索している」哲学とは縁の無いものである。大森は「哲学は日常の中に隠されている」というが、彼の姿勢はまさにこの言葉を実践している。僕が何か書こうとする時、人に伝えようとする時、常に彼の文体、姿勢を意識している。

*2:この本の解説で、野家啓一が面白いエピソードを披露している。「酒の席で大森が野家達に『若い頃にH教授から、お前の書く論文は褌を締めていない、と叱られた』と言った。野家達がきょとんとしていると大森は『褌とは論文につける注のことです』といっていたずらっぽく笑った」。大森の哲学論文はほとんど「褌」をつけないことで有名であった。それは、「自前の思索」を展開してきた証拠でもあった。(自前の思索を展開することは、先哲の議論をないがしろにするという意味でないのは当然である)

*3:脳生理学は「脳−心」の関係を一方的な因果関係と見るが、重ね描きの概念は「対応関係」として見る。それは「すなわち」の関係である。「脳に変化がおきる。”すなわち”それが、心の変化である」。単純な言葉の置き換えのように思えるが、この置き換えは、後の結果に大きな相違を生む。(後述)

*4:大森論文には引用注が無いと言ったが、本書は科学・思想史的な意味合いもあり、引用注が豊富につけられている。しかし、大森独自の思想が現れる最終15章では他人の引用注は姿を消し、自ら哲学の解説に埋められている。野家はこの事態を、「14章までの議論は、15章で土俵入りする大森哲学の露払いに過ぎない」と例えている。

*5:大森は、物と心を分離した二元論や、心は物(脳)に従うとする脳生理学的世界観を壊そうとする。しかし、これらの世界観は我々にとって、もはや生得的とでも言えるほど頑丈なものであり、ちょっとやそっとでは壊れない。それゆえ彼がとった方策は、二元論の内側から破壊することであった。つまり、歴史を遡ってそれらの考えが現れてくる現場に立ち戻り、その世界観が「ある特殊な歴史状況」において生じてきたことを明らかにし、それが我々にとって後天的な世界観であることを示すことである。