序論1 自由の体系との連関 (p399)

【第1段落】 
人間的自由の本質を探求するための、二つの課題。 

  3-1)自由の概念の画定 
     「自由」とは、検証するまでもなく明らかに感じる「事実」であるが、
     その概念を正確に言葉にすることは難しい。「自由」の適切な
     概念を暫定的に把握することがまず重要である。 

  3-2)自由の概念を「学問的な世界観全体」に組み込むこと 
     「自由」という個別の概念を、一つの全体(学問的な世界観全体=体系)
     の中に組み込む。 

ここでいう「学問的な世界観」とは以下を意味する。 

  学問的な:「哲学的な」と同義。全存在の「根源的な根拠」を知り、その
       原理によって諸事実を本質連関のうちで叙述する。 
       諸科学的成果(派生的)による連関ではない。 

  世界観 :万物によりその都度特定の方向で、各々が持つ根源的な
        制限内で開き示された姿。それぞれの生物にはそれぞれの
        世界観がある。人それぞれにもつ世界観、という意味ではない。
        遠近法。 

上記の二つの課題(3-1,3-2)は、一つの課題に統一される。 
なぜなら、一つの概念をそれ単独で規定することは不可能であり、
その概念(自由)と全体(体系)との連関が示されてはじめて、学問的な
完成を与えられるから。

また、「自由」の概念は副次的なものでなく、存在全体の中心であり、体系の
中心点の一つである。つまり、体系そのものが「自由の体系」である。 


【第2,3段落】 
しかし、通説によれば、「自由」の概念と「体系」は相容れないものである。 
なぜなら、「自由」とは、存在者全ての根拠で、それ以上遡って根拠づけ
られないものであり、一方、「体系」は、一貫した根拠づけの連関を要求する
性質を持つからである。 
よって「自由の体系」とは次の二つの面から破綻せざるを得ないと考えられる。 

  4-1)体系が維持されれば、自由は放棄される。*1
  4-2)自由が堅持されれば、体系は断念される。    

しかし、4-1に関しては、体系が何を意味するかが正確に決まらない限り、
この異論には根拠がない。 (「体系の意味」の詳細は後述) 


【第4段落】 
4-2に関しても、人間的自由の定立と共に、体系も必ず定立される。 
なぜなら、個々の存在者は、必ず他の存在者の連関と結構の中で定立
されており、これが即ち、体系となるからである。(「存在者のあるところ
には体系もある」) 
また、体系は存在者の本質に属するものであるので、「根源的存在者」の
うちに、少なくとも、「神的悟性」のうちに存在しているはずである。 
この時、二通りの反論が考えられる。 
      
  5-1)仮に「神的悟性」のうちに体系があるとしても、人間の悟性には認識できない。 
  5-2)体系は「神的悟性」の内にもない。 


【第5段落】
(5-1に関して)本当に人間は認識できないのだろうか? 
この問いは、認識原理の探求へと進む。事実、『自由論』において、
この考察が論述の中心課題となっている。 

この段落では、セクストュスの次の言を用いて、この原理への探求を
予期している。 
「等しいものは等しいものによって認識される」 
これは、哲学とは存在者の根拠を認識するために、自ら根源的な基盤
(根拠)へ降り立ち、そこで根本原理を考えることを意味している。
言い換えれば、「己の内なる神をもって、己の外なる神を把握する」
(「絶対者の知的直観」)
  
反対に、文法学者(物理学者、化学者ら)は、根源的な基盤において
認識することはない。 
ゆえに彼らは、全存在者の根拠となる原理を知ることができず、自らの
原理しか理解できない。 

哲学的認識とは、「神の内において(根源的な基盤に降り立って)」
行われる。 


【第6段落】 
では、5-2はどうだろうか?「根源的存在者の内に体系は存在せず、
およそ存在するのは個々の意志のみである(つまり体系は存在しない)」
とするフィヒテ的な考えである。 
けれども、人間の理性は統一性を要求する性質を持つ(体系化を目指す)
のであるから、これも破綻する運命にある。(詳細は後述) 


【第7段落】
歴史的にみれば、自由の概念と体系の相容れなさを疑うことはできないが、
かといって、「自由の体系」への問いは、いまだ真に哲学的なものである。
なぜなら、存在に関する真理によって、哲学は開かれた場に出ようとするが、
やはり依然として存在者の必然性に拘束されているからである。 

哲学とは、それ自体で自由と必然性との相克である。
この課題を解決することなくては、哲学、ひいては諸学問も無価値なものとなる。 
ゆえに、体系の可能性を考え抜くことから逃避することはできない。 

*1:体系を機械的決定論の体系と考えれば、現代でも通用する問いとなる