解説

*1【世界に対する3つの態度】

自然的態度
世界の存在を自明とする日常的態度
自然主義的態度
科学によって理念化された客観世界を自覚する科学的態度。外部世界の存在を自明とするのは前者と同様だが、自然的態度における世界とは主観的相対的なそれで、こちらは客観的、普遍的な世界である。
超越論的態度
外部世界をエポケーし、世界の意味形成の場である超越論的主観性へと考察の場を移行する態度。


*1補足【還元の二つの途】

フッサールは前期(『イデーン』)と晩期(『危機』)で、還元の方途を変化させます。

前期における還元
自然的態度から超越論的還元により一気に超越論的主観性へと至る。(デカルトの道)
晩期における還元
自然的態度と自然主義的態度を区別し、後者をエポケーして生活世界(自然的態度)に一旦立ち戻った上で、さらなる還元により超越論的主観性へと至る2段階のステップを踏む。(新しい道)

なぜフッサールはこのように変化したのでしょうか?
前期において混同されていた自然的態度と自然主義的態度を明確に分離し、還元において越えられるべきであったのは、自然主義的態度の方であるのだとフッサールは悟ります。科学的世界観である主客二元論を基礎づけながらも、それによって覆い隠されていた本来の自然的態度こそ還元によって顕わにしなければならないと考えます。

この転換によって還元とは、「客体的なものの意味の生成を主体の構成作業に遡って明らかにするもの」でなく、「世界を主体−客体の相関関係においてみようとする客体化的な意識の態度一般を判断停止するもの」と位置づけられます。こうして還元によって科学的客観世界は排除され、我々が日常に生きる生活世界がそこに現れます。自然的態度とは他の態度と並ぶ一つの態度ではなく、それらの一切の態度に先立ってそれらを可能とする原初的態度に他ならないのです。

つまり現象学的還元の目的は、前期における「全ての意味や存在妥当を根源的に産出する超越論的主観性の立場へと身を置く」のではなく、晩期の「我々の素朴な日常的経験、自然的態度を振り返ること」へと転換されるわけです。メルロ=ポンティは述べます。

「最初の哲学的行為とは、客体的世界の手前にある生きられる世界に立ち戻ること」

「真の哲学とは、世界を見ることを学び直すこと」

この生活世界への帰還は『危機』において主題化され、この隠し覆われた生活世界を顕わにし、そこに再び科学的客観世界を基礎づけることにより、諸学の、加えて人間の危機を救うことができるとフッサールは考えます。


*2【地平】

地平の基本的意味は、視野のうちに現れず注意されず、それでいて潜在的に存在しいつでも顕在化する可能性を持った背景のことです。私は今モニターを見ていますが、その瞬間にも意識はされていませんが机の上のテキスト、鉛筆、ノート、といった潜在的背景が控え、私の意識に上るのを待っています。地平とはこの潜在的背景全体のことです。

現象学における地平の意味は、上述の個々の知覚的現出者の背景という意味を越えて、「別様の仕方でありうるものの(可能性としての)全体」と拡大されます。あるものの現れが、指示性や連想性の連関を介して他の現れを喚起するように、ある地平は他の潜在的な地平を喚起するといった開放的な指示連関を持ちます。すべての指示連関の結合によって究極的に想定された地平が「全体的地平」すなわち「世界」です。

「世界」とは現にある世界のみならず、可能性としての世界全体をも含む概念です。

個別的経験に先立って「世界」はすでに与えられており、個別的経験は世界との関連性の中で経験されています。この全体的地平としての「世界」は、受動的次元においてすでに存在しています。「世界」とは、ハイデガーの「Woraufhin」(すべての存在者がそこから理解され、そこへ向けて理解される基盤)に近いのではないでしょうか。