解説

*1【越論的哲学の始祖としてのデカルト

(まえがき*2 で述べたように)デカルトによる純粋に思惟する自我への還帰は、超越論哲学への道を切り開きました。デカルトは、すべての存在意味と存在妥当がそこから発生する主観にたどり着きます。しかし、その発見の本来の意味を理解できなかったため、真の超越論的哲学へと入ることができませんでした。

数学的自然科学への信頼を持つ彼は数学的演算で、つまり純粋な自我という公理から客観的な外部世界を演繹的に推論できるとします。取り出された純粋自我に本来備わっている諸原理に従って正しく推論を進めることにより、世界のその他の部分が解明できると考えたわけです。その時彼は、出発点となるべきその純粋主観を客観世界と因果関係を持つ対置された一実体とみなします。これが主観と客観の分離を導き、彼は(超越論哲学と正反対の)二元論の父となります。


*2【主観の二重性】

   現象学的心理学の主観 :世界に存在する主観(心的主観)
   超越論的現象学の主観 :世界を意味として構成する主観(超越論的主観)

超越論的現象学によれば、世界のみならず心的主観すら超越論的主観によって構成されます。

「純粋な自我とそれの意識作用(超越論的主観性)とが、世界・・・の自然的存在(含む心的主観)に
本来先立つ存在として、それに先行している」(「デカルト省察」8節)
 

いよいよこれから「超越論的現象学」が述べられますが、もう一度これら学の違いを確認しておきましょう。(まえがき解説2参照) (ただし時折、両者が混同して使われている場面もあるように私には思えます。)

<意識の捉え方>
現象学的心理学−心を実体的なものとして捉える。
超越論的現象学−意識の根本構造を「ノエシスノエマ」という志向性に見る。
<対象の捉え方>
現象学的心理学−意識が向かう対象をあらかじめ存在するものとして前提する。
超越論的現象学−その志向対象は意識によって構成されるものと見る。
<意識作用の捉え方>
現象学的心理学−意識作用を記述するときも、単に意識作用(ノエシス)の事実的記述にとどまる。
超越論的現象学ノエマとの相関関係においてノエシスの機能の本質法則を記述。