解説

*1【厳密な学としての哲学】
フッサールが、厳密な学としての哲学(第一哲学)を志した経緯を説明します。

彼が哲学を学んだ19c末〜20c初頭は、いわゆる「科学の危機」が叫ばれた時代です。

数学に例をとると、非ユークリッド幾何学の樹立は、従来直観的な真理だと考えられたユークリッド幾何学の公理が単なる仮説にすぎないことが明らかになりました。当初は、この幾何学は、単なる論理的構築物にすぎないとされていましたが、アインシュタインによって、重力現象の説明にはこちらの方が有効であることが証明され、現実とも関連があることがわかりました。すべての数学の理論は、任意に選択される公理群からの整合的な推論の体系にほかならないことすら証明されました。これは、最も厳密だと考えられた数学によって自然を記述する自然科学に大きな衝撃を与えます。

また、物理学の分野では、量子論の発見により、我々を離れて客観的に存在する世界を問うことが不可能であることが証明されました。

これは、しょせん科学の理論体系は主観的な性質のものに過ぎず、世界を認識する一つの道具に過ぎないということを意味します。このことから、科学の相対的実用主義的な見方が提唱され、絶対的な真理(世界認識)を追求することは無意味な行為という風潮が生まれます。

上は、自然科学における危機ですが、人文科学においても同様の危機が訪れます。

心理学は、19c中葉のフェヒナーらによって、自らの意識の内面を観察する従来の内観法を捨て、自然科学に範を取った実験的方法を取り入れます。これはめざましい発展を遂げます。その結果、あらゆる認識、学問は意識の構造によって規定されるという所謂「心理学主義」が生まれます。この心理学主義から見れば、論理的法則もわれわれの心理作用に過ぎないことになります。それは全ての論理や数学といった客観物は、所詮人間における真理であるという相対的な人間中心主義に帰結します。この立場では、普遍的な学を確立するのは原理的に不可能となります。(この心理主義、加えて心理学との戦いは、現象学もが同じように誤解されることが多かったことから、初期から 晩年まで形を変えながら執拗に続けられます)

同様に、社会学ではあらゆる思想、認識、学が社会的な起源を持つことが主張され、歴史学では「歴史主義」── 全てが歴史的状況に規定される──とされました。

これらに共通するものは、学の普遍性を放棄した相対主義的立場です。

フッサールは、哲学こそがこうした諸学問の危機を救わなければならないと考えます。
宙に浮く諸学に確実な基礎づけをすることにより、学の絶対性の復興──それは理性の復興でもあるのですが── を企てます。生涯思想を変貌させていくフッサールに最後まで流れている信念は、この学(理性)の復興ではないかと思われます。

余談ですが、客観世界の崩壊は生物学にも大きな影響を与えます。
一つの客観世界に様々な生物が住むという従来の環境構造はユクスキュルによって破棄され、全ての有機体はそれぞれ特有の空間性・時間性、内容的性質を具えた環境構造を持つとされました。
この世界観は、後にハイデガーの世界内存在の概念にも大きな影響を与えます。


*1補足【厳密な学という理念について】

現代に生きる我々、特に日本人にとって、この学の理念は理解しにくいのではないかと思います。木田元氏も著書の中で述べております。(『現象学』p38)

フッサールに限らず、近代西洋の哲学者にとって、「学」とは神のロゴス、ないしその現れともいうべき世界の理性的秩序の探求です。世界が神の創造物である限り、その構造は互いに根拠づけの連関をなし、最終的には究極的な根拠に支えられた厳密な体系をなすはずです。そして、神の表象としての人間には神の理性の「出張所」である「(人間)理性」が備わっています。それを正しく用いれば世界の構造を解明できる、という信念が西洋の学を支えていました。

しかし、前述のように、客観世界を人間が認識することの不可能性が原理的に発見されました。それはたんに学問の限界を示すだけでなく、神の存在の否定、世界の理性的秩序の否定、神の表象としての人間理性の否定につながります。これは、理性(神)への絶対的信頼を基盤に形成された西洋精神文化の根底を揺るがすことになります。
しかし、彼らと異なり我々日本人には、もともとそのような絶対的なもの(真理)を基盤に文化を創る歴史がありません。それゆえ、それを失う恐怖も理解しがたいのではないでしょうか。

私が西洋の哲学書を読んだ時、知的には共感するのですが感覚的には感情移入しにくいのはこの辺りに原因があるのかもしれません。


*2【三つの心理学】


   経験的心理学 ─ 現象学的心理学 ─ 超越論的現象学
                   (純粋心理学)

これは心理学の進化でもあります。
それぞれの心理学はその左の心理学に基礎づけられます。(経験〜は現象学的〜によって、現象学的〜は超越論的〜によって)

経験的心理学
実証科学の方法論を模範に生みだされた心理学。外部世界(身体)と心との因果関係を探究する。
現象学的心理学
外部世界を想定したまま、現象学的方法(還元)を用いて、純粋な心的自我の領域へと立ち戻り、そこでの純粋な心的経験を記述する。
超越論的現象学
外部世界の実在を判断停止し、還元により世界がそこから構成されてくる心へと至り、そこでの心の構造を解明する。

1,2が対象とする心は、世界がまず存在しそこにその一部として在る心(心的主観性)を扱い、 3のそれは、(外部世界の存在を認めずに)世界さえもその領域で構成されるとする心(超越論的主観性)が主題となります。
この二通りの自我は異なったものですが、けっしてどちらかが一方の第二の自我として補助的にあるものではありません。超越論的自我での経験は、心的自我での経験へと変換できることにより、両者の同一性が保たれています。(9節で詳述)

では、なぜ一見独我的と思える超越論的主観を想定するのでしょう?その想定は、*1でフッサール哲学の動機とどのように関連しているのでしょうか?詳細は本論で明らかにされますが、そのさわりだけ述べておきます。

フッサール現象学においてやろうとしたことは、相対性に陥った学の普遍性の復活です。彼はそれらの学の混迷原因をそれらの学が立脚する地盤が確実ではない、具体的には曖昧なまま使用された概念やカテゴリーにあると考えました。
では諸学の地盤のどこが不確実で、絶対確実な基盤とはどこに存在するのでしょうか?

フッサールデカルトにヒントを得ました。
デカルトは徹底的な懐疑──彼は目の前の机の実在さえ疑います──の末、「全ては疑えても、その疑っている私が存在していることは疑えない」(我思う。ゆえに我あり)を発見します。デカルトはここに、これ以上疑うことができない絶対的な基盤を見つけます。「目の前の机は幻かもしれない。しかし、私がその机をみていること自体は疑えない」というわけです。その「机をみていること自体」が起こっている場が主観です。
一方、諸学が基盤とする客観世界、及びそこに含まれる事物の存在はドクサにすぎません。日常の経験から「外部世界はあるはずだ」と思いこんでいるだけで、それが証明されたわけではないのです。
全ての存在者は「主観の内において」その存在意味、存在妥当(確信)が生じます。それ以外にはありません。存在者を決定する全ての源泉である主観(超越論的主観)こそ、デカルトが看破したように絶対的な基盤だとフッサールは考えたのです。