【 下條信輔『意識とは何だろうか』 】
『意識とは何だろうか』(講談社現代新書、下條信輔、1999)
著者の基本的なスタンスはギブソンの「生態学的心理学」に近いのかな。
人間の心といわれている現象は、脳だけによって創られるのではなく、「脳−身体−環境」という「関係」において形づくられるものだ、と。豊富な実験例が良。ただ、この手の科学的視点で見られる心脳本は、基本的に物心二元論がベース。この本も、「心−身体−環境」という互いの連続性は想定するものの、哲学的な問題点は回避されている。
1. 錯視は誤った知覚ではない。
例えば、オレンジ色のゴーグルを長時間かけ続けた後はずすと、雪が緑色に見える。
これは視覚の錯誤ではなく、それまでの環境(オレンジ色の世界)がもっとも鮮明に
見えやすいように、色覚の判別帯のピークが「白から緑」へと中心点を調整した結果である。
(その結果、オレンジに偏った視覚系が元に戻るまで、視覚の鮮明に見えるピークは
緑であり、それゆえ景色が緑に見える。普段は白が中心)
つまり、色とは、ものに付属する性質ではないだけでなく、心(脳)に備わる主観的な
ものでもない。環境と脳(身体)との関係によって決定される。
網膜に到達するある波長がある特定の色に対応する、といった絶対性は色にはない。
(「脳−身体−環境」の関係によって心のある現象が決まる、)
2. 記憶は脳内だけに蓄えられているのではなく、身体や環境にも分散している。
幼児の時期に体罰を与えられた人は、大人になって暴力を加えられれば、幼児の頃の
記憶を想い出す。子供の頃見たテレビ番組を再見した場合も同様。記憶は、先天的、
後天的記憶を加えた「脳−身体−環境」の「来歴」による。
3. 分裂症患者が幻覚や幻聴を見る時、脳の対応する箇所に活動が見られる。
つまり、知覚的にみればその幻覚や幻聴は誤っているが、脳内物質レベルで語れば、
それらが現れる方が正常である。
4. 従来の脳生理学の方法は受動的であるが故に、心の能動的側面(意思、自発的行為)
にはたどり着かない。心の受動的側面(「見える」「痛い」「嬉しい」)をつかさどる脳器官は
発見されても、意思をつかさどる脳器官は原理的に発見されえない。
5. 他者の心は、それを観察する人の主観の問題である。
他者の心は実在するから学ばれるわけでなく、あるものとして学ばれるから実在する。*1
(04/1/16)