私と世界の関係、主客分離は擬似問題である。 (第二章、第三章)

「現存在はさしあたり自己の内面圏内に封じ込まれていて、それがなにかを志向し把捉するときになってはじめてそこから超え出てゆくというようなわけではない。むしろ現存在は、それの原義的な存在様相からいって、いつもすでに発見されている世界において出会ってくる存在者のもとに、いつもすでに『立ち出でている』のである」(p112)

ハイデガーにとって人間とは、客体的な世界に生まれてきた身体に心が吹き込まれたものではない。もし人間と世界との関係がそのようなものであるならば、

「この認識する主観は如何にしてその内的<圏>からでて、それとは<別種な外的圏>に達するか」(p109)

という心身問題に陥らざるをえない。
しかし、彼によれば認識とは、世界=内=存在*1の存在様態のひとつに過ぎない。
人はそもそも、アプリオリに世界と通じ合った状態で存在する。そこでは、上述の問いはそもそも無意味な問いである。

人間の根源的な在り方は、世界の他の事物との間で張り巡らされた関係性*2の中にすでに投げ込まれ、それらを配慮している状態である。配慮していないと思えるとき時──例えばただ歩いている時とか──でさえも、世界の関係性から逃れることはできない。世界と密接に関係しあってそこから逃れることはできないのが、人間の存在の仕方である*3

そこでは、主観と客観が分離したときに生じる、「主観は客観に如何にして到達するか」というアポリアは存在しない。
心身問題は、世界を客体的に見ようとする時初めて現れる。客体的に見るとは、対象を、世界の関係性の中から取り出してそれ単独で観察することである。

世界を客体的に見る原因は、世界との配慮的交渉の欠如的変様によって生じる。
金槌が壊れて使用不可能になったとき金槌が持つ道具性(世界や私との関係)が失われ、それまで気付かれなかった世界の関係性の網の目(道具立て全体)が浮かび上がると共に、そこからはみ出た金槌そのものが眼につく。その時、金槌をそれ単独で観察することが客体化の始まりである。金槌のような一つの事物の客体視を世界全体に拡げていけば、世界の客体化に繋がる。
大切なことは、

「まず客観世界が存在し、その客観物に意味付けしながら我々は世界と関係していく」

と考えるのではなく、

「人は生まれながらにして世界と関係付けられており、その後ある特殊な事情によって、その関係性を消去した後に残る世界を客体的に見る」

と考えることである。

*1:世界内存在 :「道具全体の用具的存在にとって構成的な機能を持つ様々な指示関係の中へ、非主題的に配視的に融けこんでいること」(p135)

*2:道具的な関係性である。ハンマーは釘を打つ「ために」、鉛筆は字を書く「ために」存在する。人間にとっての世界は、この「のために」で繋がれた関係性の網の目によって成り立っている。

*3:ハイデガーは客体的存在者(人間以外の物、例えば机とか椅子)同士は原理的に触れ合うことはできないという。触れ合うことができるのは、生まれつき世界との関係性の中に投げ込まれ、世界を配慮して存在する人間だけである。机や椅子のような客体的存在者は、世界との関係性を持たない存在様態ゆえ、他の存在者と触れ合うことはできない。(p101)