僕の問い 「本物−見え」の世界観 

さて、新しい場で始めるにあたって、原点に戻って考えようと思う。それは、次の問いである。

   「はたして、脳が心や世界を生み出すのだろうか?」

これは、「物質から心が生まれるのか?」と言い換えてもいい。

通常我々は世界を、「物質」と、感情や思考といった「心」の二つのカテゴリーから成ると考えている(物心二元論*1)。これは、人間から独立して成り立っている世界(本物の世界)と、人間の認識を通して見た世界(見えの世界)を分けることでもある*2。中には、「なんで僕らが見ている世界は本物でなくて、見かけの世界なの?」と疑問に思う人もいるだろう。しかし、生物によってそれぞれの知覚世界が異なっていることを考慮すれば、人間が認識する世界も、所詮人間の知覚を通して認識された見えの世界であることがわかる。そして、人間が己の知覚作用を通さずに世界に接することができない以上、我々はけっして本物の世界を認識することはできない。

世界を「本物−見え」に分離する世界観は、近代哲学から産まれた。反二元論を標榜する哲学陣営から多くの批判を受けながらも、科学理論を支える土台として生き続けてきた。現代脳生理学の華々しい登場によって、科学者だけでなく、”科学的視点で物を見る”*3一般人にとっても極当たり前の世界観となった。

これからここでやろうとすることは、この脳生理学的二元論「本物−見え」の世界は本当に正しいのか?という古くて新しい議論を、自分なりにゆっくりと追ってみることである。*4

*1:世界の存在を「物」と「心」に分類するこの思想は、世界の見方を一つ増やしただけにとどまらず、世界と人間との関係を根本的に変化させた。この思想が現れたのは、ガリレオニュートンらの科学革命と同時期だが、目に見えて変革の顕著な科学革命と異なり、こちらの変化は、ほとんどの人に気づかれないまま、潜在的に心の奥底を蝕んでいった。一体何が起こったのか? それは後に見ることになるだろう。

*2:「物と心」の二元論と、「本物−見え」世界の二元論は、それぞれ存在論、認識論として考えられる。この両者は密接につながっている。存在論的に世界を捉えることが目的であるが、当面はその手がかりとして、認識論的見地から考えてみる。

*3:” ”で強調したのは、日常生活では、科学的視点で世界を見ている人などほとんどいないからである。たとえそれが科学者でも。科学的視点とは、世界を認識する時の思考の枠組みの一つである。しかし、多くの人は、この枠組みだけが本物の世界を描写しているのだと錯覚する。その結果、その枠組み内での約束事が、その枠組みの母体である我々の日常世界を規定する逆転現象が起こる。この議論は別項を設けて述べるつもりである。

*4:当方ただの素人です。ご意見、ご感想あれば気軽に書き込んでください。お待ちしています。