唯物論者は観念論者か?

現代科学の花形、脳生理学を保証人に持つこの「本物−見え」の世界観は、よく考えてみれば、オカルト的な奇妙さで成り立っていることがわかる。「本物−見え」の世界観とは、簡略化して言えば、「外部にある本物の世界からの信号を私の身体が受け取り、それを中枢コンピュータである脳が加工する。その結果、見えの世界が現れる」ということである。中枢コンピュータに何かの異常が起こると、世界の見えも変化する。それを裏付ける実験例も豊富に存在する*1。その結果、次のように言われる。

   「脳の状態が、世界の見えの在り方を決める」

脳生理学的世界観の持ち主とは、多かれ少なかれ唯物論的思考の持ち主である。つまり、世界の根本原理は物質であり、感情や思考といった心的現象はその派生的産物であると考える人である。当然、心ある生命体がいなくとも、物質は存在すると考える。しかし、よく考えてみれば、彼らのこの考えは己の前提と矛盾していることに気づく。

物質(脳や身体)が心的現象を産み出すと彼は言う。
 彼らが用いる「心的現象」とは何を意味するのか? それは、「感情や思考といった通常いわれる心の働き」だけではなく、我々の目の前にある「物質世界」をも意味する。なぜなら、この世界とは「見え」の世界であるというのが、彼らの世界観の前提としてあるからだ。ということは、「脳が心的現象を産み出す」という言明は、通常心といわれる現象だけでなく、私の身体を含めた世界全体が脳によって産出されると同じことを意味する。*2
ここで、完全なる唯物論は、完全な観念論と一致するという矛盾に突き当たる。
もちろん彼らは、この結果が導かれたことに戸惑いを覚えるだろうし、自らが観念論者と呼ばれることに断固反対する。

ここまでの流れをまとめてみよう。
脳生理学的世界観の前提1.2から、a.bが導かれ、a.bから前提2に矛盾する結論が導かれる。

   前提1 :世界は「本物−見え」で成り立っている。我々が知覚できるのは「見え」の世界だけである。
   前提2 :世界の根本原理は物質である。心はその派生的産物にすぎない。

     a  :脳は心と物質世界、つまり世界全体を産み出す。
     b  :世界を産み出すその脳ですら、脳の観念によって産み出されたものである。

   結論 :完全なる唯物論は完全なる観念論と一致する。*3

*1:ペンフィールドの実験 :てんかん患者の解釈領を電気的に刺激すると、彼の過去の経験がまるで映画のフラッシュバックのようにありありと追体験された。(解釈領:脳の側頭葉にあり、現在の経験を過去の経験に照らして解釈する働きを担う)(『脳と心の正体』第6章) ただし、この追体験はか1なりいい加減と今ではわかっている。

*2:「言われることはもっともだが、あなたは、日常使われる『心的現象』という語を拡大解釈している。それゆえ、おかしな結論が導き出されるのだ。知覚された物は、想像や想起で現れる心象とは異なって、通常、心的現象とは言われない」と批判されるかもしれない。この指摘は、ある意味当たっている。だが私はここで、ある問題を考えたいのだ。それは、同じ心あっての出来事にも係わらず、『想像や想起による心象は実在しない』とされ、『知覚された物は(勘違いがあるにしても)存在する』と分類されることだ。たとえば、想像したパンは実在しないが、目で見て触って疑えないものは存在すると言う。本当にそうなのか? 我々の日常言語においては、この存在分類は正しい。しかし、日常言語が正しい世界を描写していないならば? むしろ、日常言語の規則に引きずられて、ありのままの世界を見逃しているのではないか? 僕がここで、「心的現象」で指す意味を拡大したのは、この問題をも考えてみたいからである。

*3:ここで使用した「観念論」という言葉を僕は、「(私の)世界は観念で成り立っている」という意味で用いました。しかし、「観念論とは、観念的存在が物質的存在の必要条件であると述べるものであり、世界の根本原理を観念と置く論である」という指摘を受けました。それに従えば、僕のこの結論は導かれません。そして、この指摘は正しい指摘だと思うので、ここでの推論を撤回します(記録として残しておくために、削除はしません)。現在は、唯物論者の二つの命題、「物質が世界の根本原理である」と「脳が心を産出する」が果たして両立するのか考察中です。