機械的決定論は、語の異なった用法を混同したゆえ生じる

機械的決定論 :「物質である脳から心が生まれてくるから、心は全面的に物質の法則に規定されている。そして、物質の法則は決定論を導くゆえに、心を含めた世界全体も未来永劫決定している*1

 この偽りの理論は、ある語の異なった用法を混同したゆえに起こる。その語とは「物質」である。
科学理論が言及することのできる「物質」とは、「心を通して見られた物質」であり、それ以外にない。それゆえ、「物質」という語の正しい意味は次のようになる。

  「物質」の意味 :心を通して見られた物質 ・・(a)

 では決定論者の言い分は、この正しい意味での物質という語を用いているだろうか? 否である。彼らは「物質」という語の意味を、次のようにすり替えている。

  機械論者の使用する「物質」の意味 :心を通さず、心から独立して存在する物質*2 ・・(b)

 この意味で言明Aを理解すると、いかにも世界の真理を告げているかのような錯覚に陥る。しかし、これは誤りであることは、前提aから明白である。決定論者の言明Aに、前提aを代入して見よう。

「心を通して見られた物質である脳から心が生まれてくるのだから、心は全面的に心を通して見られた物質の法則によって規定されている。そして、心を通して見られた物質の法則は決定論を導く。ゆえに、心を含めた世界全体も未来永劫決定している」
ここで、

  「心は、心を通して見られた物質の法則によって規定されている」 ・・A’  

とは、どういう意味か?
 「心を通して見られた物質」とは心的現象である。よって「心を通して見られた物質」とは当然心の法則に規定されている。*3A’の文は、「心は、心の法則に規定された心的現象の法則によって規定されている」と言い替えられる。つまりこの文は「心は心の法則によって規定される」と同一の命題であり、極当たり前のことを言っているにすぎない。*4その原因は、これまで見たように、「物質」という語の二つの意味を無意識に使い分けているからである。*5

*1:「物質の法則は決定論を導く」という に対して、「量子論では確率的にしか物質のふる舞いを特定できない」とする反論がある。しかし、この確率論も一種の決定論である。心は物質の法則に規定されているとするのが、決定論の本質だからである。よって、量子論を根拠に決定論は反駁されない。

*2:次のような指摘があった。「科学は、主観的事情を捨象したときに残るクオリアの共通項について研究する『心的現象の大系』ということです。言い換えれば『客観を追求する学問』ということです」。この科学観は正しい。しかし、科学者はこれを理解しているのだろうか。彼らは、科学が対象としているのは、物自体に内在する法則、つまり、「物自体の体系」の構築を目指しているのではないか。理論物理、宇宙史などどうだろうか。

*3:ここで機械論者は、「心は物質から産まれているから、心の法則と思っているものは物質の法則である。物自体としての物は、クオリアとしてありのままに投影されている」と反論するだろう。そして、これに対して有効な再反論は今のところない。心を通して見られる世界の法則のうち、どれが物質の法則で、どれが心固有の法則が見分ける術はないからだ。よって、攻めどころを変える必要がありそうだ。一つは、脳生理学が主張する「脳−心」の関係を一方的な「因果関係」とするのではなく、「対応関係」とすることだ。

*4:量子論では観測問題が生じる。観測問題とはつまり、「極小物質は心を通して見られた途端、確率的にふるまう」ということである。これは、物質の運動に心の存在が関連していることを示す。だが、今回の議論とは、関係なさそうである。

*5:科学が物自体に内在する法則を解明していると主張するならば(*これは間違いであることがわかった。2/25の日記見よ)、彼らは、物自体に内在する法則性は人間の脳から派生する物理法則というクオリアに「何らかの超越的原理によって」厳密に一致する事を証明しなければならない。