心脳問題メモ  

   「外部の刺激が脳に達し、脳内ニューロンをある状態とする。その結果、知覚風景が現れる」

モデル化すれば、「物→脳→物の見え(心像)」
このモデルにおいては、「物の見え」の最終的な根拠は脳内ニューロンの発火状況のみであり、
外部の「物」や「電気信号」は一切関係ない(認識のニューロン原理、茂木)。

A. 脳と心の関係

1. 「脳⇒心」の一方向の「因果関係」 :「これこれの刺激が脳に達し、”その結果”、コップの知覚風景が現れる」 ・・脳生理学

・脳生理学の「世界は脳が産出する」は、水槽脳の世界となり、独我論へと至る。
・物理反応が心的現象という全くカテゴリーの異なる現象を産み出す理由が説明できない。
・脳生理学のモデルだと「認識のN原理」は全く正しい。しかし、この原理は独我論を必然的に導く。客観世界に存在するの脳が前提であるのに、その脳が全世界を作りだすという矛盾が起こる(心理学的主観、超越論的主観)
将来、脳内N発火状態と知覚現象の対応が完全に発見されたとしても、それで「脳→知覚現象」の因果関係を確定するわけではない。片方向の対応関係が確定されるだけ。
現代脳生理学は原理的に受動的能作しか調べ得ない。能動的能作(意思)は検出されない。

2. 「脳⇔心」の双方向の「対応関係」 :「コップの知覚風景がある。それを物理的に描けば、コップからの電磁波が脳を・・」

脳内Nなどの物理現象は、知覚風景(日常描写)を物理語(科学描写)で言い換えたに過ぎない。
・日常の知覚         :知覚風景→脳
・異常(脳に電流、精神病) :脳→知覚風景 

・目の前の椅子を動かしたら椅子の見えが移動したのは、外部からの刺激が脳を変化させて、それから椅子の見えが動いたのではない。椅子を動かすことが、そのまま椅子の見えを動かすことで、そこに脳内物理現象という中間項は必要ない。日常においても、脳がこの世界を産出していると考えるのは奇妙。
・脳に微弱電流を流したら、知覚風景が変化したからといって、常に「脳→知覚風景」の因果関係とする必要はない。

B. 「見る私−見られる物」の二項構造の廃止

網膜、視神経に変化が起これば視覚風景に変化。同様に外部世界に変化が起これば、視覚風景が変化。これは本質的には同じ。
私と外部世界のどこに境目をつけるか?視覚風景に内部(私)はない。視覚風景の遠近法の中心。
眼球の後ろの私(脳)が世界を見ているわけではない。
「私」とは?(青色本

C. 「意識対象−意識内容−意識作用」の三項構造の廃止

記憶心象や想像心象は外部から見えない。よって、心は私の身体の中のどこかにあると考える。
しかしこれは間違い。身体に閉じ込められた心などない。私が生きているこの知覚風景全体が「私の心」である。
今日の買い物を脳に記憶しておくのと、メモに書いておくのでは何ら変わらない。外部記憶装置。
カメラモデルの廃止。意識内容をどうやって外部世界に映し出すのか?