死を隠蔽する現代  

   「死のみが生にその意味を与える」

これはウィトゲンシュタインが1916年(27歳)の日記に記した言葉である。
当時の彼は、危険な前線におり、目前には死があった。それ以前の彼は、生への意識が低かった。しかし、戦いの激しさが増す中で、危険な監視塔の任務を志願した時、彼の生への態度は決定的に変化した。以降、彼の「生の思考」は、生涯にわたって続いていく。*1

死を、存在認識の重要な要素とする『存在と時間』が、なぜ当時の人に大きな影響を与えたかといえば、第一次大戦後の荒廃した精神に合致していたからとよく指摘される。死と隣り合わせの時代を生きた人にとって、ハイデガーの哲学は、学問を超えて彼らの生そのものへ直接響いてきたのだろう。おそらく戦時の日本でも、『存在と時間』を手に前線へ赴いた若者は多かったはずだ。

生は死と並列されて初めて輝き始める。*2
現代日本社会のように、徹底して死を隠蔽し、日常から締め出した社会では、生の意義、私や世界の存在意義が薄れてくるのは当然かもしれない。*3一見それに反するように、巷には、生きる目的、生の意義を説く指南書が山のように溢れている。*4
だが、パスカルの言葉*5を思い出すのは僕だけではないはずだ。

死は隠蔽されたといった。
しかし、リアルな死は隠蔽されたが、バーチャルな死は巷に溢れている。*6歪んだ死は、それと表裏一体の生をも歪める。
現代日本はあらゆるタブーを敵視し、情報、性、そして死さえも晒けだそうとしている。我々は、その晒け出されたものに我先にと群がる。*7それは、「豊かな生をおくる」という現代において絶対ともいえるスローガンの下にある。

現代日本の特徴がこの開放性であるならば、その開放性はリアルな死をますます隠蔽する。
生が開放されればされるほど、死は隠蔽され、リアルな生は希薄になっていく。
パスカルから見れば、現代日本は自らの存在から必死に逃亡している人々の群れなのだろうか?*8

*1:鬼界彰夫ウィトゲンシュタインはこう考えた』(p138)。「たぶん明日、照明塔係に志願し上に登る。その時はじめて私にとっての戦争が始まるのだ。そして生もまた存在しうるのだ。多分死に近づくことが私の生に光をもたらすだろう。神よ我を照らしたまえ」

*2:死とまで行かなくとも、強いストレス状態を乗り越えた時の安堵感・幸福感は生を実感させる。自由と束縛。人は束縛を経験することで自由を感じる。そして死とは、最大の束縛であり、その後の自由感を感じることのできない最後の束縛である。いや、むしろ生全体がこの束縛の影響下にある。そこからわずかに逃れた時、自由を感じる。通常自由は束縛の後にやってくるが、死という束縛からの自由は、その束縛それ以前に現われる。パスカル慰戯。「死そのものよりも、死を恐怖する心の方がずっと身にこたえる」(メレ)「死は、やってくるのはたった一度だが、人生のあらゆる時にその影を見せる。死ぬのが辛いよりも、死を怖れるほうがずっと辛い」(ラブリュイエール『人間について』)

*3:僕の日常は、死から完全に隔離されている。親兄弟でない限り、たとえ知人の死でもそれは儀式に過ぎない。(幸い僕の親はいまだ壮健である)。メディアが伝える死は、僕にとってフィクションに過ぎない。僕の生にとって、死は何の意味ももたない。ただ、想像しうるのみである。わずかに日常の中に現われる、ちょっとした危機を乗り越えた時、その安堵感、開放感、充実感が私に生の意味を教える。大学が決まり受験から開放された時、降り注ぐ陽射しの中をあてもなく彷徨うそれだけでこんなに幸せだったんだ、と感激したのを覚えている。

*4:むしろこの現象が、生の意義が薄れてきた現代人が生の意味を求め右往左往している姿を表している。

*5:「死を見ないように目隠しをして崖に向って突っ走る」(『パンセ』)

*6:ネットで自殺を予告し、それを実行した有名な日記があったが、まさにリアルな死を感じた。それが事実であったかわからない。だが、ネットというもっともバーチャルな空間の中で、もっともリアルな死を感じたのは皮肉なことだ。

*7:むしろ、群がるように強要されているといった方がいいかもしれない。街中で、メディアで垂れ流されている広告を見よ。

*8:生を充実させるための行為と思っているもの(慰戯)は、己の存在の卑小さ、死の恐怖を隠蔽するための手段にすぎないとパスカルは述べる。パスカルにとって王様が幸福であるのは、多くの慰戯が手に入り、周りのものが彼を一人にはさせないからである。一人になれば、自分と向き合わなくてはならなくなる。(王様とは現代ではさしずめ、権力者・金持ちだろうか)「退屈ほど人間にとって耐えがたいものはない。それは自らの卑小な存在に向き合わねばならないからだ。人間の慰戯すべては、この現実からの逃避手段に過ぎない」 id:Paul:20010106