メモ  

世界は元来一つだけであり、それを多種多様jな生命独自のサングラスを通すゆえ、世界も多種多様に映ると考えるのではなく、世界自体が私の心と連動して、様々に映り行く性質を持っていると考えてはいけないのか?
客観的な世界が存在し、そこから送られた信号を身体が解析し、様々な色付けをした後で、まるで映画のようにスクリーンに映し出すのではなく、もともと外部世界と心は密着・一体化したものであり、外部信号と心的能作の関係により様々な世界が現れてくると考える。それゆえ世界とは各自異なった世界しかありえない。私の知覚風景ととんぽの知覚風景の背後に唯一客観世界は存在しない*1

─────────

主体の存在しない世界など想像できるのだろうか?
主体と対峙しない世界、つまり、主体の認識を通さない世界は存在するのだろうか?

認識する主体が全て滅びさっても世界は残ると私が考えているのは、私が存在しているこの生の中で、次々と人が死に、この世界からいなくなっているにも関わらずこの世界は存続し、私も存在し続けているからである。
この考え方の底にあるものは、「私の存在=他者の存在」と考える客観思考である*2
次々と死に行く彼らと私を同一の存在者、この世界にとって同一の在りかたをしている存在者と考えているゆえ、彼らが死んでも世界が残るように、私が死んでも世界は残るはずだと考えるのである*3

確かに客観的に考えれば、私と彼に違いはない。
構成されている物質や外見、振る舞い、思考構造はほぼ同じで、私と同じように心をもって世界と対峙しているのだろう。しかし、存在レベルで考えれば、私の存在の仕方と彼の存在の仕方は決定的に異なっている。彼は私の世界の一点景であるが、私は私の世界の一要素ではない。彼が死ぬことと、紙が燃えて消滅することは、精神的ダメージは別にして、私の世界自体に変化が起こるわけではない。しかし、私が死ぬとすれば、(おそらく)この世界全体が消え去る。

─────────

私というものを定義するとすれば、それは、身体を含めたこの目の前の世界全体以外ありえない。
目の前の風景だけでなく、私が想い描き、想起している心像を含めた全てが私の存在であり、その世界に直接関係ができるものが私である。
私の身体や心像はある程度私の自由になるが、遠くのコップは動かすことはできないといわれるかもしれない。しかし、コップの心像を意識によって変化させることができるように、遠くのコップはそこまで行って片手で掴めば、コップの位置は変化する。形を変化させたいならば、かなづちで叩けばいい。そこに本質的な違いは存在するのか?
だが、コップの心像は私泌的なもの、実物のコップは共有されているものである。しかし、私泌的なものは実在せず、共有されているもの、いわば客観的なものだけが実在するとする定義の仕方に再考の余地はないか。

─────────

今日の夕飯のおかずを買いに行ったとき、事前に記しておいたメモを見て思い出すのと、頭を絞って思い出すのとその違いは何か? 脳に刻み込むことと、紙に記すことに、本質的な相違はあるのか? 脳は身体内記憶装置、メモは身体外記憶装置。もし将来、脳に差し込んで使えるカートリッジ式記憶装置が開発されればそれはどうなのか。人工では駄目だと言うなら、ある薬を飲めば、脳が一部増殖して、記憶装置化する場合は?

─────────

私の視覚神経や脳内ニューロンに物理的変化が起こって視覚風景が変わるのと私がサングラスをかけたり、他人が机の上のコップを動かすことで視覚風景が変わることには本質的な区別はあるのか。
「物−電磁波−網膜−脳」。この間に「私−世界」の境界を設定することはできるのか。

─────────

私の存在とこの世界とを分離して考えることはできない。ある物質が結合され、その集合体(身体)の中に「心」が吹き込まれ、世界と対置して世界に語りかけていくわけではない。「私−見ている−世界」と言われるように、「主体−認識作用−世界」といった図式で、分離された主体と世界を何らかの魔法の力(心)によって結び付けているわけではない*4

─────────

「私」とは、通常、意図的に影響を与えられる範囲をいう。
例えば、私の右手は自分の自由になるが、他人の右手は自由にならない。
よって、彼の右手は「私」ではない。私の心像・観念は自由になるが、他者のそれらは(もし存在するとしても)自由にならない。よって、私の心像・観念は私のものである。
遠くに見えるライトスタンドはいくら念じても動かない。だからスタンドは私ではない。
しかし、車に轢かれた猫の死体を見れば、私の気分に大いに影響を与える。
私の不用意な一言は、彼の心を傷つけるだろう。
物質として見れば、「私」の範囲は決まってくるが(もちろん身体である)、心に関しては、もし「私」の範囲を決める条件が「対象に影響を与える」ならば、心は私の身体を遥かに超えて広がっている。すでに数百年前に死んだ物書きの言葉でさえ、私の心は影響を与える。

─────────

私だけが他の存在者と異なり、特殊な在り方をしている。
私の腕をつねれば痛いという確かな感覚が生じるのに、彼の腕をつねっても何も感じない。
なぜ、私はこの身体を離れて世界を見ることができないのか?
私は手に持っているボールを遠くに投げることができるにも関わらず、私の意識はこの身体から離れることはできない。なぜ、私は彼の視点から世界を見ることができないのか?私が想像や想起、予期した心像はある程度自分の意思で変化させることができるにも関わらず、私の目の前のコップはUFOにならないのか?

─────────

今、心が生まれてくる母胎となる世界を物質世界と呼んだが、実は我々が通常知覚している意味での物質世界ではない。そこには色も匂いも音もあらゆる五感は存在しないからだ。たとえば、色は人間の主観に備わる性質だと考えられている。しかし、色のない物体は考えられるだろうか?色が主観の性質ならば、主観を通さない世界のコップには色はない。そのようなコップは、どのようなものなのだろうか? 我々はそれを、「丸い三角形」と同じく想像することすらできない。色は、物から反射したある波長の電磁波が外部信号として身体に取り込まれ、それに反応した身体器官(網膜、視神経、脳)との共同作業によって現れる現象である。色の客観的な物理的性質は存在しない。

*1:、唯一客観世界という考え方はある意味古めかしくも馬鹿馬鹿しい考え方だろう。世界は相対的であり、それを解析するときのモデルによって変わってくるわけだから。だが、一般的には、我々の知覚を可能としている背後世界の存在を、それを認識できないにしても、無意識に想定しているのではないだろうか?生命の存在しない宇宙史などその例ではないか?そのモデル心的現象を含んだモデルは作れるのか

*2:自らを客観視、いわば第三者の目で自らを見つめ返す「まなざし」が人間に備わっていなければ、世界とは私の世界以外ありえず、つまり客観世界は気付かれず、世界は私の死と共に消滅すると考えるだろう。

*3:客観世界は残るが、私の主観世界は私と共に滅びると両者を区別する。

*4:主体と世界を結びつけるものは記号(言語)でもありうる。二元論では、「主体−世界」をつなぐ媒介項が必ず必要となるし、それを見つけることはできない。「意識対象−意識内容」「世界−主体」「心的現象−物理現象」これらの間に密接な関連があるのはわかっているが、それをつなぐものは出てこない。なぜなら、根本的にカテゴリーが異なっているから。いわば、「数5の重さはいくらか?」と問うようなものである。