リートフェルト展  

府中に所用があり、府中市美術館で開催されているリートフェルト展に立ち寄った。

良かったのは、シュローダー邸の模型と、レッド&ブルーチェアに座れたこと。
残念だったのは、エスキースや落書きが少なかったこと。

シュローダー邸は、それ単体で見る時と、周囲の景観の中に置いて見る時とでは、受ける印象が全く違う。
現在の日本に住む者の目から見たら、古めかしいデザインに思えるかもしれない。だが、隣接する住居や周囲の町並みの中に起立する姿を見ると、暴力的なまでの前衛さにあっけに取られてしまう*1 *2
そして、開放的で広々とした室内のイメージと異なり、本当に小さい。こじんまりしている*3。こんなおもちゃのようなかわいらしい建物が、20世紀の建築史に残るものだと普通の人は思わないだろう。
圧巻は、色彩を媒介に、家具と建築内部の一体化によって創りだされている流動的な空間だろう。むしろ、「建築=家具の集合体」と言った方がいいのかもしれない。
鮮やかな原色を使用しながらも、それでいて落ち着いた空間は魅力的である。

レッド&ブルーチェアは、分解された部材が展示されてあった。
「えっ、こんな単純な部材だけで組み立てられてたの?」という感じ。実物から簡単に予想がつきそうなものだが、改めて提示されて見ると驚きの念を隠せない。子供でも作れそう*4
この椅子を見たら、誰でも自分で材料買ってきて「My椅子」を作りたくなると思う。
リートフェルトの家具は、素人のものづくりの心さえも刺激する。「よっしゃ、俺も!」と*5
やたら複雑な曲線だとか、手の込んだ飾りだけがデザインじゃない。
イデア(と才能←)次第で、コストや構造上の制約があっても、こんなに豊かで表情を持ったものが作れる。大きな勇気を与えられた。


良い作り手は、作品の素晴らしさを認識させるだけじゃなくて、それ以上の何かを与えてくれる。

この展覧会では、彼のデザインコンセプトや作品の形態以前に、「ものづくり」としての姿勢、素材と戯れながら手と頭を連動させていくことの大切さを思い出した。
最近は活字やPC相手がほとんど。せいぜいスチロール模型。しかも仕事上の必要性から*6。その上哲学にも興味をもち、プライベートな時間はそちらにかかりきり。
そんなこんなで、純粋な楽しみから自分の手で何かを作り上げる時間がなくなっていた。

僕が今使っている机や本棚は全部自分で作った。
安い木材屋を探してきて、材料を選んで、自分でデザインして、寸法を測って、切って、塗装して、組み立てて・・・。
本がけっこうあるから、大型書棚が2つ。中型が2つ。
机は見栄え重視で、1800*600の一枚板のキャンティレバー構造。板が浮遊してる感じを出したかった。エッジのラインが、結構かっこいい(笑。
でも使い出してから、奥行きは900は必要、キャンティは(当たり前だが)使いにくいということに気付いた。
その反面、構造的にかなり無理をしているのに、4年の間、しなったり壊れたりもしない。素材の強さを実感できた。
自分で作って、自分で使い続けることで、初めてその長所と短所がわかる。
それが次の作品を作る原動力となる。一つの作品の内には、次の作品がすでに胎動している。

建築は、自分が直接造るものではなく、自分が(自邸でない限り)使い続けることもできない。
能動的で純粋な創造的な側面より、受動的な側面、作業的な側面の方が遥かに多い。
多くの制約条件を課せられた建築は、自分が考えていることを形にできる機会はなかなか訪れない。

そんな日常に追われてしまうと、つい、ものづくりの原点ということを忘れてしまう。
一流の作り手は、それを僕に思い出させてくれる。
結局僕は、リートフェルトの建築や家具を見ながら、その背後に立っているリートフェルト自身を見ている。彼の作品の形態や理論でなく、彼の職人としての魂を感じ取っているのだと思う。
その彼の魂が僕に語りかけてくれるから、僕はこうして自分に問いかけている。

こういった見方は、僕の場合どの分野でも同じ。
ここ一年半ほど、哲学者である大森荘蔵を追っかけている。
そこまで惹かれる理由は、彼の哲学の内容にあるのではないことは明白だ。
そうではなく、彼の哲学が産み出された地点、言い換えれば、彼が世界を見るために立っている場所に関心があり、明らかに僕らとは異なった視点を持つ大森に惹かれてしまうのだ。
哲学者は、彼の哲学を語ることで、彼の立っている場所を我々に示そうとしている。
哲学の面白さは、彼らが立脚している場所以外にありえない。

建築も美術も哲学も、そしておそらく全ての人間の行為は、作品ではなくそれを産み出した母胎に思いを馳せる能力が我々に備わっているからこそ心が揺さぶれるのだろう。
たとえそれが名の伝わっていない作品であっても。


写真集「GA68 シュローダー邸」(リンク先の68をクリック)
 

*1:竣工は1923年。

*2:こういった前衛的な建築を見るにつけ、施主は偉いと思う。そして、その施主の信頼を勝ち取った建築家も偉いと思う。建築とは施主と建築家の信頼のコラボレーションだとつくづく思う。施主は幼い子供三人を抱える未亡人。名建築の影に名施主あり。

*3:この建築を見るたびに、autozam(?)のAZ-1が連想される。ビートやカプチーノ、ましてやロードスターでは断じてない。

*4:シュローダー邸もローコスト住宅(らしい)。レッド〜と同じく、構造的には単純なのだろう。細部は恐ろしいほどにこだわってそうだが。

*5:で、しょぼいのしかできず、がっくりと肩を落とします。

*6:建築の設計を生業としています。