私の心、あなたの心 2  

   「『他者の心』とは、私にとって、私の世界の一要素である心的存在者である」*1

「私の心」「彼の心」「飼い猫の心」「トンボの心」「花の心」「ロボットの心」等々・・。
実際にそのものに心が宿っているかどうかに関わらず、比喩的な使い方を含めて、「心」という概念は様々な存在者に適用される。

心とは、「喜怒哀楽の感情を持っている」「自意識がある」「抽象観念を作り上げることができる」といったいわば高度な意識作用から、「外界の事物が見えている」といった素朴な意識作用まで適用される。その範囲をどこまで取るかによって、「人間には心はあるが、猫には心はない」「いや、猫どころか草木にも心はある」といったように、様々な心の在り方が可能となる。

しかし通常において、心は生物学的・機能的レベルにおいて分類される。
それによれば、人間には人間の心(の構造)があり、猫には猫の心(の構造)が存在するとされる。その視点において私の心と同一の在り方をしているのは、彼や彼女の心であり、タマの心ではない。この心の分類法は、科学的な方法、つまり一般的・客観的視点に負う。
以上の分類法を一般化すれば、以下の対置図式を持つ。

  「人間の心 ⇔ 猫の心 ⇔ 花の心 ⇔ 水の心 ⇔ ロボットの心 ⇔ ・・・」

この図式の境界は、「心」という語、概念を我々がどう定義するかによって変わってくる*2 *3

しかし、存在論*4に捉えれば、この図式は通用しない。
対置の図式は、「私の心−私以外の存在者の心」である。私の心のみが、他の全ての存在者の心と異なった次元で存在している。
(以下、私の心の在り方をするものを「心m」、私以外の存在者の心の在り方をするものを「心o」とする)

  「心m ⇔ 心o」

これは、「心」という語の定義の境界問題とは一切関係しない、固定された対置構造である。
「(心)o」にはどの存在者が代入されてもかまわない。猫でも、花でも、ロボットでもかまわない。なんなら、石や樹でもかまわない*5。どのような存在者であっても、それらは同一の在り方をし、心mと対置される。この両者の在り方は証明するまでもなく、誰にとっても明白な相違である。
そもそも、「犬に心はあるか?」「ロボットに心は持ちえるか?」といった問いが発せられるのは、心mと心oの在り方には根本的な相違があり、私以外の存在者は彼であろうとロボットであろうと同様の在り方をしていることが原因である*6

この対立する二つの心であるが、心という概念が現れる原初の場に立ち戻って見れば、そこは心m以外ありえない。

「明日晴れてくれよ」
「痛ッ!!」
「あの娘、かわいいなぁ」

といった思いのみならず、今見えている知覚風景や、想像や想起によって浮かぶ表象”それ自体”を指し示す語を原初的な意味で「心」と呼ぶ。
この原初的な心(心m)は、外部の事物や想像された心像が収まるための容れ物ではないし、それらを加工・分類する作用でもない。その容れ物に入っているものそれ自体がそれである*7

他の存在者や彼らの心は”常に”心mとして存在する。
私に対置して他の存在者や様々な観念が存在することを、我々は「私が存在する」と呼んでいる。私の心というものが存在するとすれば、それは目の前の風景や、想起や予期、想像した心像全てを指す以外ありえない。心mとは、全ての存在者を外延を持つ存在者である*8 *9
私の世界に現れる存在者全てが私の心であるならば、「私の」心という限定は無意味となる。生物学的な意味でなく存在論的にみれば、(その意味で)「私の」心は存在しない。
私の心という入れ物があり、そこに外部の事物が流入してくるわけではない。「目の前にりんごが見えている」、それが私の心であり、「それをかじることができる」、それが私と呼ばれるものである。それらの存在者を抜きにした空っぽの箱のように自存した心mは存在しない*10

*1:昨日(3/10)の続き。

*2:「心とは、怒ることができる能力」ととれば、「人間・猫の心 ⇔ 花、水の心」という対置図式が現れる。

*3:我々は、様々な事物を同じ語で呼ぶとき(例えば、バナナとみかんを同じ「果物」と呼ぶとき)、それら事物に共通した何かがもともと存在しているはずだという錯覚に陥る。それゆえ必然的に、バナナやみかんは「果物」というカテゴリーに収まるのだと考えてしまう。確かに、共通する何かが存在するゆえそれらは同じ名前で呼ばれるのだろう。しかし、その分類の基準となる共通する何かは、人為的な枠組みである。我々はそのような枠組みなしには世界を認識することはできない。少なくとも、与えられたセンスデータから意味を持つことはできない。

*4:存在論的」という”それっぽい”語を使ったが、間違った用法だろう。他に適切な語を思いつかなかった。

*5:昔は、石や大樹にも心が宿ると考えるアニミズムがあった。それは単に、彼らが用いる「心」という概念には、現在よりも遥かに拡張された意味が含まれていただけに過ぎない。

*6:心oを定義するものは、他者の「振る舞い」である。振る舞いから心mと同じものがその存在者の中にあるはずだと考えることにある。最終的に、ある存在者が心があるかどうかを判定する基準は、その存在者の器官ではなく、その振る舞いである。草木や石が心がないといわれるのは、その器官的な要素が原因でなく、その振る舞いが、心mをもった存在者(私)や、それを類似したあり方をするゆえ私と同じく存在すると考えられる存在者(他者)とまったく異なった”振る舞い”をするからだ。けっして、原初的な意味での心がないからではない。同様に、猫には人間よりは劣っているものの心が存在すると感じられるのは、その振る舞いが心mとそれに類似した存在者の振る舞いと似ている部分があるからである。私の心ある存在者であると確信するのは、常に他者の振る舞いによってである。投影。

*7:では心oはどうか。心oは、この原初的な意味での心ではない。「彼の心」という時、彼の痛みや、喜びや彼の見ている知覚風景は、私を交わることはない。彼がドアに指をはさんだ時、もし私に激痛が走ったとしても、それは彼の痛みではなく私の痛みである。このような「すべては私の○○」となるのは、そもそも心mと心oの関係がそのような在り方で存在しているからである。

*8:全ての存在者が私の心に内包するならば、「全ての存在者」とは即ち「私の心」となる。

*9:しかし、これでは単純な独我論となってしまう。

*10:相変わらぐちゃぐちゃ(笑