私の心、あなたの心  

「内なる観念」「外なる事物」の図式を破棄するとはどういう意味か。

「内なる観念」という考え方がなぜ現れるかと言えば、他者の観念はその人にとって私泌的な在り方をしているからである。
彼が想像したパン、想起したりんご、彼の思考、意思。すべて私からは窺い知れない。
私から見えているものは、彼の表情であり、彼の振る舞いであり、彼の行為である。
そこから私は、それを可能としている彼の内なる存在者を思い描く。そして、それらに名前をつける。名付けられた名前、たとえば「彼の心」「彼の心像」「彼の意思」は次第に客体化され、私と対置される*1。その結果、その名前が指示する対象はどこかに存在するはずだと思い込む*2 *3 *4。その思い込みは、私の心が私の身体と密接な関連を持つことを考慮すれば、彼の心は彼の身体のどこかに宿るものだという考えを導く。
こうして彼の心は、彼の身体の内に閉じ込められた。

私は、彼の心を客体化したように、私の心をも対象化し客体化する*5
私の心を客体視すれば、当然ながら私の心も私の身体に閉じ込められる。
こうして、あらゆる心は身体に閉じ込められた。

では、この過程のどこが間違っているのか?
それは、「彼の心」と「私の心」を同一視、置き換え可能と考えたことである。
私に対置して存在する対象を客観的に記述しようとする思考法を、本来私泌的であるはずの私の側の領域の解明に適用することは誤りである*6
「他者の心(心一般)」と「私の心」の存在は、まったく異なった在り方をしている*7

「他者の心」とは、私にとって、私の世界の一要素である心的存在者である。
彼の心や彼女の心や猫の心は、私にとってまったく同じような在り方をしている*8
その在り方とは、私に対置され対象化された在り方である。それらは常に「私−○」という対置構造において現れる。私に対置された○は私から窺い知ることはできない。

しかし、私の心はそうではない。
私の心は、(私の意識を客体化しなければ*9 )世界に所属する一要素ではない*10
「私の心」とはすなわちこの世界であり、「私が存在する」とは、この目前の知覚風景が存在していること以外にありえない。この知覚風景を離れて自存する私の心などありえないし、私の心を離れた「私の」世界などありはしない*11 *12

*1:多くの哲学問題は、あらゆる観念を客体化しようとする意識のこの性質に負っている。

*2:我々は、ある名前があるとき、それを指示する対象があるはずだという誘惑に囚われる。

*3:たとえば、個別的な犬を外延に持つ「犬」という語が存在するならば、その「犬」という語は個別的な犬に共通する何かを表したもので、そのような何か(本質)は存在するはずだと考えてしまう。「本質」と「個別的性質」では、本質の方が根源的なものだと考えてしまう。本質とは、様々な個別から抽出されたものであり、現実の経験世界を基盤に確立されたものである。しかし、個別よりも本質の方が普遍性を持っていると考えられるゆえ、本質が個別を規定するという逆転現象が起こる。たとえば、多種多様な犬が同じ「犬」という語で呼ばれるのは、犬の本質が個別の犬に備わっているゆえ、それらは初めて犬でありえるのだと考えてしまう。

*4:もし現実世界に見当たらなければ、それが実在する形而上世界を想定する。

*5:心や観念の空間化、物象化は強い誘惑である。人はある観念、言葉があれば、それを空間化し、どこかに実在する対象とみなそうとする。たとえば、「空間」や「時間」。その空間化が観念の客体化、実体化につながる。心を空間的に捉えるのはあくまで比喩にすぎない。参照「真の私とは誰か」id:Paul:20040305

*6:我々は、この種の物事を第三者の視点から見る客観的思考法を信頼しすぎている。客観的に捉えられた世界が正しく真の世界であり、主観的で個別的な世界は「見え」の世界だという思考法は破棄しなければならない。

*7:他者の心、たとえば彼が想像しているパンを私が経験した途端、それは私の意識経験へと変化する。「私の心」「他者の心」という語の定義からして、論理的に不可能である。参照「意識は観測できるか」id:Paul:20020103。

*8:これは、「自我は存在するが他我は存在しない」とか「私の心と他者の心は科学的に見て異なった構造をしている」という意味ではない。そうではなく、存在論的に両者は異なった在り方をしているということ。

*9:参照「真の私とは誰か」id:Paul:20040305

*10:もちろん私の意識が世界を作り出す超越論的主観でもない。

*11:知覚風景と、想像や想起によって現れる心像(想像心像、想起心像)とは、「私」にとってどういう関係にあるのか興味を持っている。

*12:「心一般」と「私の心」の違いを踏まえて、客観的な方法論では「私の心」は捉えられないと考えたのが現象学。世界の成り立ちを記述する二つのやり方。1. 外に向って :人間が認識している世界を客観的に記述する(物理学):「一般的な心(他者の心)」の成り立ちの解明。2. 内に向って :人間の認識を可能とする条件を記述する(カント、現象学) :「私の心」の成り立ちの解明