心理主義があらわれる起源    

   「言語は、それを用いる人の観念を表す記号である」

この「言語の心理主義」は、言葉に対するごく一般的な見方であろう。しかし、現在この考え方はほぼ否定されている*1。だがこの言語観は、私たちの通常の感覚に非常に適合している。なぜだろうか?
それは、我々の認識の枠組みが未だ「主観−客観」の二元論だからである。

主客二元論の下では、私の心に現れる表象と外部の世界とは基本的に断絶されている。しかし、何らかの”魔法”によって、私の心に外部の事物が複写される*2。その時、私の心に現れるものが心像や観念である。
この考え方の下では原理的に隔絶された、私の心と他者の心とをつなぐための道具が必要とされる。私の思い浮かべていることを相手に伝えるためには、まず私の心像を誰にでも共有できるなんらかの記号に置き換え、その記号を介し、相手は自らの心像を形作らなければならない。
その役割を果たすのが言語であると考えられる。
図式化すれば、「客体 → 私の心像 → 言語 → 彼の心像」となる。
これによって、原理的に断絶された私の心と他者の心が通じあうわけである。

表象のこの移り行きを可能とするためには、言語とは心像を指示する記号であり、かつ、その記号から新たに心像を形成できるという言語の心理主義が前提とされる。言語の心理主義とはこのように、主客二元論の認識の構図を起源に持ち、なおかつそれを可能とする条件でもある*3

「内なる観念」「外なる客体」という構図を破棄することは、この「言語は内なる観念を指示する」という考えをも破棄しなければならない*4 *5。これは、言語から心像を介して客観的な事物や事態を読み取るのではなく、言語から直接客観を読み取らねばならないことを示している。

私が目の前のりんごについて語るとき、私の心に現れたりんごの写し(心像)について語っているのではなく、「客体としてのりんご」そのものについて語っているのである。

*1:「千角形」と「千一角形」の違いが何かを我々理解することはできる。しかし、この両者の違いを明確に表象することは不可能であろう。これは「千角形」「千一角形」という語が、心像を表しているのではないことを示している。もちろん、ある語を聞いてすぐさまそれに直接結びつく心像が浮かぶことも多い。たとえば、「イチロー」という語から、マリナーズイチローの顔が浮かぶときである。しかしその時の心像は、本質的にはその語(イチロー)が指示しているものではない。少なくとも「イチロー」という語から思い浮かばれる彼の心像は、実在のイチローを理解するための必要条件ではない。言語が「言語的な記号的与件」であるように、心像は「挿絵的な記号与件」なのである。

*2:この魔法をかけるのが、現代では”脳”と考えられている。

*3:ではなぜ私の思い浮かべていることが、言語を通して他人にも伝わるのか?ウィトゲンシュタインが言うには、「言語の使用によって」である。廣松が言うには、「思考と言語は一体化している。人間が認識する世界そのものが言語的に成り立っているから」である。

*4:たとえば廣松渉id:Paul:20031203「知識の伝達とは何か?」の項参照。

*5:むしろ、心理主義が反駁されるのは、「内なる主観」「外なる客観」という図式が誤っていることであることを示す。