「真の私」とは誰か    

私が自らの意識を内省した時、「本当の私」が現われる。

私が、「なぜさっきあんな酷いことを言ったのだろう」と自分に問いかけるとき、「問いかける私」と「問いかけられる私」の二人が存在しているように思える。「真の自己」である「内省している私」が、彼と双子の「内省されている私」に問いかけているように思われる。

これは、「本当の私」が私の身体のどこかに内座していて、そいつが私の身体や感情、意思を操作しているという構図である*1。この構図は、私という存在の二元性を露わにしているようにも思える。

だが果たして、この構図は正しいのだろうか。
なぜこのような「私」の分離が起こるのか?
それは、我々が世界を「主体−客体」の図式でみているからである*2。「主体−客体」の図式とは、私が何かを認識している時、認識されている何かを客体として私と対置する思考法のことである。

私が机の上のりんごを見ている。
その時、私の意識が志向している対象(りんご)は客体化されて私と対置される。「りんごを見ている私」と「私に見られているりんご」に二極化される。これが「(見る)主体−(見られる)客体」の二元論的構図である。一方に行為する主体があり、他方に行為される対象がある。

私の意識を内省する時もこの原理が働く。
普段の私は、身体と意識はぴったり密着している。ましてや、私の意識が分裂しているわけではない。しかし、私が私の意識を意識的に内省しだした時、身体と精神、内省する意識と内省される意識との分離が始まる。普段一体化している私の意識が、「観る私」「観られる私」に分裂する。観られる私が客体化されるわけである。その時、客体化されている私があるのだから(これは身体と同一視されるので想定しやすい)、それを志向しているもう一人の私も存在しているはずだと考える。この図式を固定化すれば、永遠の魂、身体が滅びても存在し続ける存在者を導く。

しかし、そのようなもう一人の私(真の自己)など存在しない。
「観る私」と「観られる私」の分離が存在しないのはもちろん、「りんごを見る私」「私に見られるりんご」の「主体−対象」の分離関係さえも存在しない*3。端的に次のように言わなければならない。

  「私の知覚風景にりんごが現われている。その風景そのものが私である」

「真の私」は私の身体のどこかに居座って、眼球というのぞき穴から世界を観察しながら、私の身体や心を操作しているわけではない。りんごを見ている時と同様に、「私の意識の志向先には私の意識がある。その両者を含めた意識全体が、私の意識である」と言わねばならない。

現在、身体から独立した(魂といった)「真なる私」を信じる人はほとんどいないだろう。しかしその一方で、普段の私とは異なったもう一人の自分が存在しているような感じも捨てがたい*4。その両者のギャップを巧みに、しかも現代最大の信仰といえる科学である脳生理学が埋める。
「脳が世界を作りだす」というテーゼである。

「真なる私」は「脳」に変更された*5。このテーゼは、「真なる私=脳」が「仮の私=感情、意思、知覚風景」を操作することを示す。これは、伝統的な「主体−客体」「観る私−観られる私」と同じ起源を持つ。脳という主体が、私の身体を含めた世界という客体を作り出す。
しかし、「見る私」と「見られているりんご」を分離できないように*6、「脳」と「世界」も分離できない。

  「私にある知覚風景が現われている、それが私の脳がこれこれの状態になっていることである」
  「私の脳がある状態になっている。それが私の知覚風景がそれそれになっていることである」

これが正しい見方ではないだろうか。

*1:認識論における脳内に住む小人。

*2:二元論の起源 :私は私の身体を操れるが、遠くにあるりんごは操れない。りんごは、明らかに私とは異なった在り方をする物である。するとこのりんごは私ではなく、私と対置された何かであると考える。その時、「私−りんご」の「主体−客体」の構図が現われる。「私ー世界」の境界は、私が直接関係できる・できないの相違だと思う。これは物質に関しては正しい。私が操れる・直接関係できる物質が私の身体であるという意味で。「私の身体−りんご」の構図は正しい。しかし、これを心に拡張し、「私の心−私に見られたりんご」と考えるのは誤りである。心は身体に内属しているという先入観があるから「心=身体」と考えて、身体という語が使われる文脈に、心という語を代入することが誤りの原因である。

*3:「観る私」「観られる私」という私の二極化とは別に、「見る私」「見られているりんご」の「私−世界」の二極化の誤りも明確にしなければならない。

*4:自らの意思とは裏腹に、「思わず〜してしまった」という時などがそうであろう。その原因を無意識や遺伝子に関連づけるのは正しいだろう。しかし、無意識や遺伝子が我々を動かしているといった比喩を現実の場に持ち込むのは誤りである。

*5:我ながら強引なこじつけっぽい(笑

*6:もちろん、(通常使われる意味での)「身体としての私」と「りんご」はまったくの別物である。ウィトゲンシュタインは、「私」という語には「物理語法」「感覚語法」の二つの文法規則が存在すると指摘した。http://d.hatena.ne.jp/Paul/200309 私とりんごは別物であるという時、物理語法の文法を用いている。一方、「(見る)私」と「(私に見られる)りんご」に区別はないという時は、感覚語法を使っていると考えるのはこじつけか?