「本物の世界」を想定してしまう原因
人間は、具体的で現実的な事物から、一般的で普遍的な事物を抽象化して取り出す能力を持っている。*1
たとえば、多種多様に描かれる三角形から、普遍的な三角形(三角形のイデア)が想定される。なぜ普遍的な三角形が想定できるのか。それは、あらゆる三角形に当てはまる、いわば三角形の本質を掴み取る能力が人間に備わっているからだ。この掴み取られた普遍的三角形とは何か? 当然ながら実在物でなく観念である。そのとき我々は、次の誘惑に駆られる。
「この観念はなんらかの実在物ではないか」
「知覚も想像もできないが、しかし、人間の認識を超えたどこかに存在する三角形ではないか」
「この普遍的な三角形が、我々が目にする現実の三角形が存在することを可能にしているのではないか」*2
だからといって我々は、この誘惑に乗せられることはない。(少なくとも現代の我々は)
現実の具体的な三角形が存在するために普遍的な三角形が実在していなければならないとは考えない。普遍的な三角形は、現実の多種多様な三角形から抽出され、すなわち心によって創られたものだと理解している。
× 「普遍的三角形 ⇒ 具体的な三角形」
○ 「具体的な三角形 ⇒ 普遍的三角形」
だが、世界の成り立ちを考える場合、この誘惑に負ける。
我々が経験できるのは現実の三角形と同様に、この具体的な世界である。しかし、この世界から抽象化されて取り出された世界、いわば普遍的な世界(物自体界)が存在し、なおかつそれが我々の具体的世界を規定すると考える逆転現象が起こる。
私たちは机の上に置かれた花を見ている。
各自見る角度が違えば、見え方も異なる。異なった人の知覚風景に現われる花はもちろん、同じ人であっても、彼の知覚風景に現われる花は刻々と変化している。そのようにまったく同じ知覚風景の花は存在しないにも関わらず、我々はそれを一つの花だと認識している。その原理は三角形と同じである。多種多様な知覚風景の花から共通する要素を取り出し、誰にでも当てはまる一般化された花(花そのもの)を想定するからだ。
この想定は、我々の生活のあらゆる場面において有効かつ、正しい想定である。日常生活においても、我々は物自体を想定しているのが普通である。そうしなければ、生活などできない。テーブルをはさんで、私とあなたが見ている図面が異なっていると考えれば仕事などできない。だからそのように想定するのである。そして事実、私が見ている図面とあなたが見ている図面は同じものだろう*3。ただしここでの想定が、それが意味する範囲を超えて、「物自体としての図面が、我々の知覚風景に現われる図面を(脳を通して)作り出している、規定している」と考えれば誤りである。この誤った考えが、決定論や「脳が心(知覚風景)を産み出す」という奇怪な世界観を生む。
× 「物自体 ⇒ 脳 ⇒ 知覚風景」
○ 「知覚風景 ⇔ 脳」
たとえ普遍的な三角形を想定することが数学に進歩をもたらしたとしても、その三角形が実在すると誰も思わないように、人間の認識を離れて実在する世界(物自体界)を想定することが科学にとって大きな進歩をもたらしたとしても、それが実在するとは考える必要はない*4。「実践として真である」と「認識論的に真である」を混同してはいけない。