【 心理主義批判  】  

「(例えば、電話の声を聞いて知人某の俤が浮かぶような場合)「記号的与件−意味的所識」に比定する流儀で言えば、声が”記号的与件”であるのと同様に、俤も”象形文字的”ないし”挿絵的”な”記号与件”なのであり、これら記号的所与が、知人某という意味的所識において覚知されるのです。
連想的に浮かぶ表象像は、挿絵的与件、つまり、知覚的記号与件とならぶもう一つの与件に過ぎず、それら与件が斉しく「知人某」という一個同一の意味的所識性において覚知されるわけです。
意味的所識はけっして連想的に浮かぶ表象像ではありません」*1

例)
1. 「四角い丸」の表象は形成することはできない。しかし、理解はできる。
2. 「ルービンの壺」の表象だけでは、それが「顔」を意味するのか「壺」を意味するのかわからない。
3. 「千角形と千一角形」とを区別して表象できない。しかし、意味の区別はつく。
ゆえに、語は表象を指示するものではない。

*表象、心像は、語を補助する副次的な挿絵的記号である。*2

事例)
「千角形」と「千一角形」の違いが何かを我々理解することはできる。しかし、この両者の違いを明確に表象することは不可能であろう。これは「千角形」「千一角形」という語が、心像を表しているのではないことを示している。
もちろん、ある語を聞いてすぐさまそれに直接結びつく心像が浮かぶことも多い。
たとえば、「イチロー」という語から、マリナーズイチローの顔が浮かぶときである。しかしその時の心像は、本質的にはその語(イチロー)が指示しているものではない。少なくとも「イチロー」という語から思い浮かばれる彼の心像は、実在のイチローを理解するための必要条件ではない。言語が「言語的な記号的与件」であるように、心像は「挿絵的な記号与件」なのである。

*1:廣松渉『新哲学入門』p49

*2:参考「心理主義があらわれる起源」id:Paul:20040308