【  意識は観測できるか  】  

   「脳から独立した意識の存在は観測されうるか?」 ・・・(a)

この問いは、経験的可能性を問う以前に、無意味な命題である。
意識という語が指示する対象は通常二つある。

  意識1 :生き生きとしたクオリアを含み、かつ経験できるもの
  意識2 :振る舞いから意識1であろうと想定された、直接は経験できないもの  

意識1とは私の意識。意識2は、いわば他人の意識である。
命題(a)で使用される意識を「一般意識」と置く。命題(a)とは、一般意識を意識1として観測できるか問うているのである。しかし、一般意識が観測できた途端、その意識は私の意識へと変換される。つまり、意識一般を一般的な意識1としては決して観測できない。それが、意識1の定義から予め決められている論理的必然である。

では、なぜ(a)のような誤った問いが現われるか?
それは、意識1はその本人が経験できるのは明白であり、かつ、他人にも意識1が存在していると確信しているため、私と他者全体を含む意識一般の存在も問えるだろうと考えるからである。しかし、その結果は上述の通り。経験的にでなく、論理的に不可能なのである。*1

よって、「脳から独立した意識が観測されないから、意識は脳を離れて存在しない」という命題も間違っている。そもそも、論理的に無意味な命題であるからだ。 (04/2/28) *2 *3

*1:ここで、「振る舞いや、意識が発する(いまだ発見されてない)電磁波を通して観測されるはずだ」と反論されるかもしれない。つまり、意識2としてならば観測できるというのだ。これは正しいだろう。しかし、振る舞いや電磁波とは本来、意識ではない。あくまで意識を指示する記号である。いくらそれらしい振る舞いや電磁波が観測されても、意識一般が観測されたとはいえない。それは、他人にいくら意識があると確信していても、他人の意識を原理的に観測するのは不可能なのと同じである。意識を指示する振る舞いや電磁波の存在を意識の存在と同一視するのは、いわば「龍」という語が存在するからといって、「龍も存在する」というようなものである。

*2:僕は、脳を離れて意識は存在し得ないと考えている(つまり、身体を離れた魂は存在しない)。ただ、それを証明、観測云々を問うのは無意味であると主張するのである。

*3:参考:ウィトゲンシュタイン青色本http://d.hatena.ne.jp/Paul/200309