解説

*1【なぜ純粋意識を取り出すことが必要なのか?】

フッサールは前述の学問の危機の原因を、諸学問に確実な基礎づけがなされていないからだと考えました。科学が用いる基本的な概念やカテゴリーは、通常、日常的経験から無反省に持ち込まれたものです。日常的経験とは、素朴な世界確信の上に立つ経験です。この世界確信というドグサ(不純物)を取り払って、全てがそこから生まれる原初の場(超越論的主観)で、もう一度それらの概念を基礎づけようとします。

*2【なぜ外部世界の存在をエポケーするのか?】【エポケーは外部世界の実在を否定するか?】

現象学は無前提性から出発します。そのとき世界の存在は確実と言えるでしょうか?世界が実在するという私たちの確信は、日常的経験における明証性(知覚)に基づきます。しかしその経験は、デカルト的懐疑には耐えられません。そのことは、世界の存在はもはや自明な事実であるいうことはできず、単に確信された現象に過ぎないことを意味します。それゆえ、その不確実なもの(世界確信)の判断を保留しなければなりません。そのような不確実なものを徹底的に排除することによって、絶対確実で純粋な領域(超越論的主観性)を取り出すことができます。エポケーによって始めて、純粋な経験とそれが生じる純粋な領域の本質的な構造を分析できるのである。そのとき、世界の意味もその存在の妥当性も、私たちの主観のうちで構成されていることがわかります。
よく聞かれる現象学への批判に、「世界をエポケーするとは世界の実在を否定することなのか?」があります。しかし、エポケーによって世界が消え去るわけではありません。世界はそっくりそのまま「意味として」主観のうちへと移行されるだけです。木田元氏がうまい例えを挙げています。

  「超越論的還元は、自然的態度(外部世界を自明とする態度)の
  一般定立を否定するものではなく、ただその遂行をストップし・・・
  そこに反省の目を向ける・・。
  彼はまた、その定立を『括弧に入れる』とかその定立作用を
  『スイッチを切る』などという言い方をしている。
  スイッチを切ったからといって、そこにある配線が消えて無くなる
  わけではない。ただ、日頃無意識に行っている定立作用の電源を
  切って、そこに敷設されてある配線の具合を反省しようというのであ
  る。当然そこで定立されていた世界の存在も否定されるわけはなく
  括弧に入れられた形で、つまり世界という意味形成体としてそのまま
  そこに保存されることになる」(『現象学』p46)

現象学という学の内では、外部世界を否定もしないし肯定もしません。あくまで「判断停止」なのです。もう一つ、メルロ=ポンティの言葉を引いておきましょう。

  「我々は徹頭徹尾世界と関係していればこそ、我々がこのことに気付く
  唯一の方法は、このように世界と関係する運動を中止することであり、
  あるいはこの運動との我々の共犯関係を拒否すること(フッサール
  がしばしば語っているように、この運動に参与しないでそれを眺める
  こと)であり、あるいはまた、この運動を作用の外に置くことである。
  それは常識や自然的態度の持っている諸確信を放棄することでなく
  て──それどころか逆にこれらの確信こそ哲学の恒常的なテーマな
  のだ──むしろ、これらの確信がまさにあらゆる思惟の前提として
  <自明なものとなっており>、それと気付かれないで通用しているか
  らこそそうするのであり、したがって、それらを喚起しそれとして出現さ
  せるためには、我々はそれらを一時差し控えなければならないからこ
  そそうするのである」 (『知覚の現象学』p12)

メルロ=ポンティ木田元氏のこの引用箇所は非常に明快です。世界をありのままに見るために、世界の確信を一旦括弧に入れようと言うわけです。エポケーはあくまで「方法論として」行うといったニュアンスが強く感じられます。しかし私が読んだ限りでは、フッサールの場合のそれはかなり倒錯しています。
後に9節で「自然的態度」における経験と「超越論的態度」におけるそれの平行性が語られますが、それゆえ外部世界を認めているとは単純に言えないようです。私もよくわかりません。追い追い考えていきましょう。