1 認識は「私」の一部である

●1-1
「認識のニューロン原理」p35p57
私たちの認識は、脳内のニューロン(脳内N)の発火によって直接生じる。認識に関する限り、発火していないNは、存在していないのと同じである。私たちの認識の特性は、脳内Nの発火の特性によって、そしてそれのみによって説明されねばならない。(ゆえに、それ以外の脳内活動は無視してよい。ex.、グリア細胞)p35

●1-2
脳内N原理の下での心脳問題p39
「ある脳内Nの発火状態が与えられたとき、その脳内ではどのような認識が起こるのかの対応原理を見出せ」外部の状況も無視してよい。

N原理も、従来の「物理反応→心」の構図を破棄しているわけではない。ただ、物理反応の範囲を、外部刺激、感覚器を除いて、脳だけに限定しただけである。対応関係を解明しているだけ。N原理は、おそらく正しい。しかし、この原理は「脳が世界を産出する」というオカルト的な水槽脳、独我論へと至る。どこがおかしいか? 「脳→心」の一方的因果関係がおかしいのだ。心はどこにあるのか? 心と外部世界の関係は? 心は身体のどこかに閉じ込められているのか? 新しい構図を提出しなければならない。

●1-3
視覚における物理的刺激=電磁波(波長380〜770nm)
聴覚             =音波(周波数20〜16000Hz)

これら②の物理的性質の違いや感覚器の構造の違いでは、「見る」「聞く」の心的現象の違いを説明できない(してはいけない)。
すべては⑤の脳内Nの発火状況によってきまる。どのような物理的刺激がそのN発火を引き起こしたかはもはや関係ない。p40
「私が認識する内容と外からの刺激の内容は、原理的にはまるで無関係。認識の内容は脳内Nの状態から自己組織的に生まれてくる」p32
色の感覚は、様々な波長の可視光から生まれてくるのではなく、脳内Nの対応関係によって生まれる。
  「私が外のものを認識するのではなく、認識は私の一部なのだ」
  「認識とは私の一部である」p32
私が認識することと、私の外にある事象とは原理的には無関係である。p33
脳内Nさえある状態にあれば、私の認識に犬は存在する

●1-4
すべては⑤の脳内Nで説明せねばならない。 Nの発火⑤と外界からの刺激の間の関係①④ではない。反応選択性の実験では(外から被験者の脳を観察)ダメ。p42

  ①本物のリンゴ →②光波 →③網膜 →④視神経 →⑤脳のある状態 →⑥見えとしてのリンゴ

●1-5
反応選択性」の否定
認識の問題を、外界からの刺激に対して脳内Nがどのように反応するかという視点(反応選択性)から研究してきた。これは大きな誤り。脳内Nの発火特性、およびそれらがどのように相互依存関係にあるかが大切。N発火と外界からの刺激の間の関係ではない。反応選択性を否定することは驚くべきパラダイム変換を引き起こす。p42

●1-6
結びつけ問題」p46
現在の視覚研究における最大の問題。
脳の視覚野は物の視覚特徴(色、テクスチャー、形・・)を分業体制で解析している。それを統合して一つの物を認識する。その統合メカニズムは?

その回答p49(→どちらも説明できない)
1. 統合される合流領野が存在する。
   →「組み合わせの爆発」を考えると不可能。
2. 同期説:N発火の間の同期が、視覚特徴を統合する上で重要な働きを果たす。
  →これも?

●1-7
「結びつけ問題」を問うことは、「なぜ私たちの視覚は、網膜位相保存的な枠組みの中に組織化されるのか?」という視覚の根本問題を問うことに他ならない。p56

●1-8
問いp57
「聴覚野のNも視覚野のNも、同じNである。なぜ、それぞれの発火が、私たちの心の中に、これほど違うクオリアを持つ感覚を生じさせるのか?」