第一部序章 哲学の逼塞情況と認識論の課題

●1. 旧来の「主観−客観」図式の特徴 p7

1-1. 主観の「各私性」 :「主観は各自的な私の意識である」
「感情移入共感」「群集心理」等、どこまでを私の意識と境界を引くのか?
意識の各自性は、それぞれの脳の各自性ではない。 脳に意識は宿らない。
意識と脳は密接な関係を持つ。*1だからといって脳内に意識が宿っているわけではない。色や音が脳内にあるのか?
脳が各自性を持つからといって、意識まで各自性を持つとは限らない。脳≠意識。
「意識内容が主観に内属する」は、単なる比喩に過ぎない。
    脳と意識の同一化 → 意識の物象化 → 主客の分離が始まる 

1-2. 認識の「三項性」 :「意識作用−意識内容−客体自体」
認識主観に直接あたれられる「意識内容」が、「客体そのもの」から区別される。
意識内容は意識作用によって加工・変様されるとする誤謬。
三項図式は、認識の客観妥当性の権利付けが保障されてない(意識内容と客体自体の一致は原理的に確認できない)。

1-3. 与件の「内在性」 :「認識主観に直接与えれられるのは意識内容(知覚心像、観念、表象等)に限る。客体自体は、意識内容を介して間接的にしか知りえない」

●2. 旧来の「主観−客観」図式の綻びを露わにしたもの p12

2-1. 未開人、精神病患者の意識構造の研究
脳や感覚器の生理的機構や基礎的な心理過程は同一であるに関わらず、およそ異なった精神構造をもつ。
知性的能力のみならず感性的能力にいたるまで、歴史的・社会的に共同主観化されている。*2
  →意識の共同主観性

2-2. ゲシュタルト心理学の影響
統覚心理学*3的発想を持つ従来の認識論が基礎としていた「恒常仮説」*4を覆す。

2-3. 「集団表象」の問題*5
集団表象(道徳的事象、言語等)は、人々の意識が集団化され、共同主観化されていることを示す。
加えて、意識内容、表象が「物象化」することを示す。
集団表象は、諸個人が持つ表象の代数和でない。「特殊的総合」である。
「物象化された意識、集団表象」は、従来の意識内容、客体に収まりきれない。*6
補足1. 脳内Nとクオリアは必ず一致する。

●3. 廣松認識論の問題の立て方 p17

3-1. 意識の共同主観性はいかにして可能であるか?
人間の意識は本源的に社会化され共同主観化されている。
知識内容だけでなく、「思考方式」「知覚の仕方」そのものが社会的に共同主観化されている。
従来の認識論は、原理的に他者の存在を無視してよいという想定の上で成り立っている。
   →他者の存在は、認識の本質的な1契機である。共同現存在。私が考える→我々が考える。

3-2. ゲシュタルト的分節化の具体的構造が共同主観的に規制されるのはいかにしてか?p18
意識はゲシュタルト的に体制化されている。
ゲシュタルト的分節の具体的様相は、「物理−生理学」的に定まるだけではなく、共同主観的コンフォルミズムによって規制される。

3-3. 共同主観的な対象的活動はいかにして自己を物象化するか? p18
認識の過程は、共同主観的な物象化の過程である。
「認識は単なる「意識内容」を与件とする主観内の出来事でなく、物象化的構造を持つものとして、直接的に対象関与的である」
   →自己を客体化するということか?
「物象化の秘密」を認識論的に解明する。

●4. 認識論は、当の認識論的省察そのものの真理性を権利問題の次元で基礎づけなければならない p20 (04/3/3)

*1:この関係が、意識とは各自の身体のどこかに内属していると考える要因の一つである。

*2:インディアンは虹が5色に見える。構造主義の影響。

*3:要素的意識内容が主観のはたらきによって結合され現与の形象となると考える心理学。

*4:刺戟が同一であればそれに対応する感覚も同一である。

*5:フランス社会学派による。

*6:現象学や価値哲学が「第3領域」に属するとしたものも同様である。