第一章 現象的世界の四肢的存在構造

第一節 現象(フェノメノン)の対象的二要因
フェノメノンの対象的側面には、レアール(=所与)・イデアール(=etwas)な二肢的構造がある。

フェノメノンは、その都度与えられる所与以上の或るもの(etwas)”*1として”現れる」

言い換えれば、意識は「必ず或るものを或るものとして意識する」という構造をもつ。
たとえば、私の意識に、ごつごつした黒っぽい棒状の物体と緑のわさわさした固まりの所与が与えられた時、私はそれを「樹として」認識する。この「樹」というetwasは、個別的な実在物である「この松」や「あの杉」とは異なって、イデアールで普遍的な存在性格を持つ。他にも、「黒板に書かれたある図形を(普遍的な)”三角形として”」、「街ですれ違う何かを”人間として”」といったように、与えられた所与にイデアールな意味付けをすることが意識が持つ根本的な性質である。

フェノメノンは、”フェノメナルな意識の直接的な与件以上”の或るもの”として”、即自的な”対象的二要因”のレアール=イデアールな二肢的な構造的統一において現れる」 (p28)

イデアールな存在性格をもつetwas(対照的「意味」)が、所与においていわば肉化する」(P36)

「所与はそれ以上の或るものとして与えられる」が典型的に現れているのは言語、記号である。


第二節 現象(フェノメノン)の主体的二重性
フェノメノンは、必ず誰かに”対して”ある。(p29)

私の手元にペンがある時、ペンは”私に対して”あり、子供が犬を見て”ワンワン”を呼ぶ時、当の(犬の)フェノメノンは”子供に対して”ある。このような一対一対応だけでなく、二重に帰属する場合もある。
たとえば、幼児が”牛”を見て「ワンワン」と呼ぶ時、その牛は子供に対しては”ワンワンとして”ある。幼児の父親が「あれはモーモーだよ」と訂正する時、父親が幼児の誤りを指摘できるのは、彼が牛をワンワンとして捉えることもできるからである。この時父親には、牛を”モーモーとして”捉える彼と、”ワンワンとして”捉える二者の彼が存在している(自己分裂的自己統一)。
これは特に珍しいことでなく、日常至るところで現れる様態である。むしろ、この二重化構造が他人の心情や様々な知識を獲得する前提構造である。

「現与の対象的世界は、我々が『誰かとしての誰』という構造においてある限りでのみはじめて我々に対して拓ける世界である」(p32)

●知識の伝達とは何か?(p31)

知識の伝達とは、自分が抱く心像を相手の意識に再喚起させることではない*2一方の人物が所与をetwasとして捉えるその仕方と、他方の人物がそれをetwasとして捉える仕方とを同じにすることである。いうなれば、意識作用の発現の仕方が共同主観化されるわけである。
これを視点を変えて言い直せば、所与をetwasとして意識する仕方は、それぞれの社会で共同主観化されており、それ以外の仕方で所与を意識することは不可能であることを意味する*3

「『形式(etwas)』は、共同主観的なVerkehrを通じて、意識作用の発現する仕方が共同主観化されていく」(P42)

●誰かとしての「誰」とは何であるか?(p33)

フェノメノンが、”に対してある”ところの”主体”が彼として登場する『或る者(jemand)』とはいかなる性格のものか?」(p33)

そのjemandはイデアールな性格を持つ。
たとえば、外国語の教師は生徒達に対して、”当該言語を教える先生として”あり、彼の個人的な性質は副次的な意味しかもたない。その「当該言語を教える先生」というjemandは、どこかに実在する人物でなくイデアールな存在者である。彼は、”当該言語の先生というイデアールなjemandとしての私として”生徒の前に立つ。

イデアールなjemandはレアールな個々の主体から離れたどこかにあるわけではない。イデアールなjemandは、この肉化においてのみ、現実的な存立性を持つ」(p34)

このように我々は日常においても、「私としての私」だけでなく、「誰かとしての私」としての存在性格を持つ

フェノメノンがetwasとしてあるのは、「私以上の私」に対してである。こうして単なる私よりも、かのjemandとしての私のほうが優位に置かれる」(p35)

対処の側がレアール−イデアールの二重構造を持つように、主体の側もまた、イデアール・レアールな二重構造においてある。
    【対象の側】   レアールな実在物 − イデアールなetwas
      (として)     (あの松、この杉)      (樹)
    【主体の側】   レアールな主体   − イデアールなjemand
      (に対して)     (廣松渉)        (哲学者)


第三節 現象的世界の四肢的構造連関

所与=質量的契機(純粋にレアールな、つまり”何々として”と捉えられていないセンスデータは存在しない)
etwas =形式的契機、共同主観的な形式。

●etwasは、しばしば”物象化”されて意識される。

etwasという形式を純粋に取り出そうとすれば、それはイデアールな存在性格を呈し、それは経験的認識を可能とする。存在者であると考えられる。それは「本質直観」の対象とされたり、純粋な知性によってのみ認識される。形而上学的な実在として思念される。意味、形式の客体化、物象化である。

「この共同主観的に物象化された実体・本質を前提に、「普遍」が実在するという「概念実在論」が生じるだけでなく、フェノメナルな世界を、これらの”真実在”の仮象・現象に過ぎないとみなす転倒した想念が生じうる」(P37)

「すなわち、フェノメナルな世界を”真実在”の仮現象とみおる二世界説を生じ、降ってはまた、フェノメナルな与件を”実体としての物そのもの”の単なる「意識内容」とみなしてしまう三項命題が生じる。我々としては、イデアールなetwas、共同主観的な形式(形相)を物象化して形而上学的真実在に仕立ててしまうこの物神信仰の転倒した想念を──それがたとえ科学的実在と呼ばれようと──厳しく戒めねばならない。同時にまた、それを単なる認識論的主観形式、アプリオリな認識形式としてしまう想念をも斥けなければならない」(P38)

●音は世界の相対に属する(p39)

音は主観にのみ属するものではない。私の生体や物的環境のみならず、文化的環境をも含めた世界の総体に属する。拡張していえば、フェノメノンは特定の主観に属するものでなく、世界そのものに属するものである。

   1. 音は空気の振動や生理的プロセスではない*4
   2. 音は主体のみならず、客体(環境)にも属する*5
   3. 音は文化的環境、他者にも属する*6。 

●対象化された意識

自らの意識を反省した時、私の反省された意識は対象化される。そのとき、「対象の意識(対象化された意識)」と「自己意識(内省する意識)」の分断が起こる。
その理由は以下の通り。

「客観(対象化された意識をも含めた所知)には必ず主観(能知)を対応させるというかの概念図式(主観−客観)を悪無限的に退行せしめつつ要請されたものであって・・そのような純粋意識を認めることはできない」(P41)

これは、対象化された意識を、「誰かの意識として」対置できる二肢体構造が主観に備わっているために起こることである。

「かくして、人称的意識は、フェノメナルな世界の一分枝たるにすぎず、フェノメノンの総体がそれに属しうべきものではない」(P41)

●主観と客観の関係p44

「認識論的主観に世界を内属せしめたり、況やその世界が個別的主観に対しては超越論的客体をなすわけではない」(p44)

主観とは、(フッサールの用語でいう)超越論的主観でも心理的主観でもない。主観と客観はフェノメナルな世界の世界内的な関係である。

●まとめ

「フェノメナルな世界は、『所与がそれ以上の或るものとして誰かとしての或るものに対してある』とでもいうべき四肢的な構造連関において存立している」(p45)
(04/3/7)

*1:etwas=意味

*2:心理主義批判 :語が意味するのはそれによって思い浮かばれる心像ではない。それは語と同じく与件、挿絵的な副次的所与である。http://d.hatena.ne.jp/Paul/20011202。たとえば、ルービンの壺がある。この絵の心像自体には意味はない。それを「向き合った人の顔として」理解するか、「壺として」理解するかでその絵の持つ意味が異なる。「ルービンの絵=所与」、「顔として、壺として=etwasとして」

*3:たとえば、英語圏の人たちは鶏の鳴声を「コッカドゥドゥルドュー」と聞く。しかし、我々日本人がそのように聞くことは不可能である。*2の、虹を5色にしか捉えられない部族も同様の事例である。これは、彼らの社会でのetwasとしての捉え方が我々のそれとは異なっているからであり、彼らと我々の生物学的な器官が異なっているゆえではない。

*4:ここで「意識」を先取りして、「音は意識に内属する」ということはできないと廣松はいう。

*5:音は身体のみならず、空気の状態や時計の運動状況によって規制される。それゆえ、身体によって規制されるから音は身体に属するならば、音は客体(環境)にも属するともいえる。

*6:時計の音は文化によって、「カチカチ」「チックタック」など聞こえ方が変化する。これは文化的環境や他者によっても音が規制されることを示している。