第二章 言語的世界の事象的存立構造
世界観のモデルの遍歴
- 中世 :生物をモデルに万物を了解
- 近世 :機械の存在構造に定位
- 現代 :言語存在の究明を手がかりに(?)
「言語は、分析してみると形而上学的な詭計にみち神学的な悪戯にみち*1、近代的分析的理性をことごとに翻弄する」(p47)
「言語は、・・そもそも近代的な世界観の図式には収まりきれない」(p47)
→言語は主観にも客観にも当てはまらない共同主観的なもの
第一節 情報的世界の四肢構造
「情報的世界 − もの的世界」
情報的世界の存立構造をフェノメナルな世界一般の構造と対応付ける。
言語の本質
1. 自然説 2. 約束説
→この対立する地平そのものを超克。
この了説の暗黙の前提 :記号や記号で表される対象そのものの知覚(所与)について、ありのままに知覚するはずだ。→「として」構造
×「言語以前的に与えられる事象(所与)」と「言語記号そのもの」を自存させ、後に両者を関係付ける(p51)
●ロックの言語観
「言語とは、まずそれを用いる人の心の中にある観念を表わす感性的記号にほかならない」(p52)
言語は、各自の観念と外部事物をつなげる契機である。「客観的事象−記号−観念」「世界−記号−表象」の三極図式。
→これらは「主観−客観」図式をベースにしている。だが、「内なる観念」などない。少なくとも、言語理解の構造にとって必要条件ではない*2。
この見解が現れるのは、思考がまずあってそれに言語のラベル貼りして思考を表現するのだとする、両者を独立して考える思考法が存在するから。さらには、知覚世界そのものも言語活動から独立に存在すると考えているから。
●新たな言語観
「『思考』はもちろんのこと、フェノメナルに与えられる知覚的世界そのものが、そもそも共同主観的な言語的交通を離れて存立しない」(p54)
「知覚そのものが記号的なあり方をしており、・・・フェノメナルな世界は言語的交通の媒介による意味付けられた分節に従ってのみ、初めて現与のものになっている」(p55)
記号(言語)は、「として」構造が現れる最も典型的な例である。この「として」構造によって初めて、情報的世界が現前する。(記号→「として」→情報)
*この「として」が共同主観的在り方である
●「として」によって現れるetwasとは何か?(p55)
それは心像ではない。
伝達者が記号によって伝達しようとしているものは、客観的な事実である(たとえば昨日見た映画だとか)。そのとき受信者は、記号によって伝えられる事実に対して、感激したり憤慨したりする。だが注意すべきは、そのとき受信者が憤慨するのは、記号によって彼の心に生じた心像ではない。記号によって受信者に与えられるのは、心像ではない。かれは直接、その客観的な事実(映画の内容)に対して感動したり、憤慨したりする。心像とは、間接的で副次的な随伴表象にすぎない。
「受信者は記号そのものにおいて、直接的に客観的事象を看取する」
いわば、黒板上の図形において幾何学的三角形を直接読み取るのと同じである。この etwas Anderes は、記号というレアールな形象において、いわばイレアールな仕方で端的に与えられる。
●言語は四肢的構造に基づいてのみ可能となる(p56)
(対象的側面についていえば)言語−記号の表現性は、フェノメノン一般が、レアールに自己自身を示すものであることにおいてその都度すでに、同時に、イデアールな或る他のものを示すものであるということ──所与形象が一般に有するこの原基的な存在構造に基づく」(p56)
これが可能となるためには、伝達者と受信者が、当該記号体系の内において共同主観的に自己形成していなければならない。
(第一節終了04/3/10)
第二節 言語的意味の存在性格
●言語の機能(p58)
例)「火事だ!」という発話
- 指示 :対象を指示 ┬ 叙示
- 述定 :火事「として」述定 ┘
- 表出 :「火事だ!」と叫んだ人の意識や感情を表示。
- 喚起 :周りの人に非難や消化を促す。
意味の多義性は、「並列的」な多義性でなく、機能の多重構造に照応する「入れ子型」の多重性。
所記 :叙示される対象的事態。
実在的な対象的事実は生成流転であるが、いったん叙示された文の意味内容は、対象の変易とは無関係に不変である。
ゆえに、所記は客観的に実在する事実そのものではない。といって、文から連想された観念(表象、心像)でもない。id:Paul:20011202
よって、叙示される意味としての対象事態(所記)は、レアールの次元(物的、心的=realitas)と存在の次元を異にする。(第三領域)
●実在の対象的事態と所記の相違(p63)
- realitasは「特個的」であり、所記の意味は「普遍的」である。
- realitasはある「特定の規定性」を具えており、述定される意味は「関数的性格」を持つ。「犬」という述定(関数)は、ブルドックでもシェパードでも代入できる。
- realitasは生成流転の相にあるが、述定される意味は自己同一的・不易的、超時間的性格を持つ*3。
- 述定される意味は、経験的・後天的に形成されるが、それにも関わらず「論理的アプリオリ」である。
●述定される意味の特性(p65)
- 非特個的普遍性
- 関数的補完的性格
- 超時間的不易性
- 経験的認識に対して論理的アプリオリ
→「意味」は、「超時空的」「非実在的」「理念的」存在性格を持つ*4 →「意味」は形而上学的な存在?*5
●抽象理論批判(p64)
- 抽象理論
- 内包は、その言葉で呼ばれる外延を比較校合し、共通でしかも本質的な規定性を「帰納的」に抽出する。
この理論は二重の「論点先取り」と「循環論法」を含む欠陥がある。
- 外延が既知だということは内包が既知だということを前提とする。外延群を比較校合して帰納するに先立って、帰納的に取り出されるべき当の内包を知っているという先取と循環に陥る。
- 仮に外延だけが既知だとして、そこから内包を決定する時、何を基準に取捨するのか? 取捨する基準は、結局のところ、当の内包そのものでしかありえない。
内包は経験的抽象に先立って予め与えられていなければならない。この限りにおいて、概念の内包、述定される意味一般は、論理的アプリオリの性格を持つ。
●「意味」は形而上学的な存在か?(p66)
一般には、同一の語彙で表される対象群は(わけても概念語は)、同一の性質を持つがゆえに、同一の語で呼ばれると考えられている。
→むしろ逆ではないか? 共同主観的に同一の語で呼ばれるから、同一の性質を持つはずだという思念が生じるのでは?
×同一の性質 → 同一の語
○同一の語 → 同一の性質
例)果物
りんごは被子植物の子房であり、パイナップルは茎であり、イチジクは花である。トマトは果物ではない。「果物」という名辞は、さしずめ「姓名語(藤原氏といった)」。
「しかるに人々は、語彙が厳密な概念語であるかのように想定し、同一の語彙で呼ばれる概念群には何らかの本質的必然的な共通規定があるはずだと信じ込む」(p67)
「概念語が表す或る共通な本質的規定性が存在するという前提に立てれば、それは普遍性、超時空的不易性、経験的認識に対するプリオリテートといったrealitasとは次元を異にする特別な存在性格をもつと推定されざるを得なくなる。」(p68)
「ここにおいて、この本質必然的な共通規定性の総体(内包)をそれ自体として純粋に取り出そうと試みるところからイデアな存在を要請し、時によってはそれを実体化して『形而上学的実在』をたてる」(p67)
「しかし論理的には整合的、必然的であっても、まさしく前提そのものが間違っており、倒錯した臆断である」(p68)
同一の語彙が述定的に表現する或る同一なものはそもそも実在しない。
●では、「意味」は空無であるのか? ──否。
「意味の同一性」は、「同一の語彙で呼ばれるものは同一の性質を持つはずだ」という信憑と、その信憑の基礎にある「共同主観性」にある。
人々は、幼い頃からの言語ゲームによって、ある対象(バナナ)がある概念(果物)に属すると教え込まれる。この言語ゲームは、社会の共同主観性によって規定され、共同主観的なものは客観的なものであるという錯覚が成立する。
「人々が斉しく同一の語で表現するという共同主観性から、”そこには同一な或る客観的なものが存在するはずだ”と思念されるに至る*6」(p69)
「イデアールな存在性格を有する『意味なるもの』が自体的に存在するという思念、よってもって『意味』をあたかも形而上学的実在であるかのように仮現せしめる所以のものはこの倒錯による」(p69)
「意味」や「純粋数学的な対象」は共同主観的な思念である。この共同主観的思念の対象たる「意味」を自存的な対象的実在だと誤想する「物神崇拝」を戒めつつ、いわば「虚焦点」としてそれを概念化する。そのもとにおいて、「意味」は、形而上学的実在ならざるイデアールな形象として処遇できる。
(04/3/16 p69了)